ジャン=リュック・ゴダール監督が死去 91歳
私が大学生であったころーかれこれ30年ほど前、都内のあちこちにミニ・シアターがあった。
特に池袋にはその手の映画館がいくつもあり、料金もお手頃なので、学生にとってはありがたかった。
池袋の東口には「ACT2」(アクトツー)というミニ・シアターがあり、しょっちゅうゴダール特集をやっていて、私もよく行ったものだった。
ゴダール作品の中でも一番のお気に入りは、A bout de souffle 「勝手にしやがれ」で、当時買った台本(勝手にしやがれ)は今でも持っている。
最大のテーマは、監督が言う通り、「死を考える青年と、死を考えない若い女性」との間のディスコミュニケーションであり、拡張解釈すれば、人間同士のディスコミュニケーションである。
それを最もよく示すのがラストシーンである。
勝手にしやがれ
「ミシェル: c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
本当に最低だ
パトリシア: Qu’est-ce qu’il a dit ?
ケ ス キラ ディ?
彼は何て言ったの?
警官: Il a dit : Vous êtes vraiment une dégueulasse.
イ ラ ディ、ヴ ゼット ヴレモン ユヌ デギュラス
あなたは本当に最低な女だと。
パトリシア: Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
最低って何のこと?」
ミシェルは、「(俺の人生は)最低だ」と言ったのだが、警官は、アメリカ人のためフランス語を十分理解していないパトリシアに「最低の女だとよ」と、歪曲して伝える。
ここで、形容詞:dégueulasse「ひどい、最低な」が、”une” のついた名詞:dégueulasse「ひどい女、最低の女」にすり替わっているのだ。
さて、安楽死したと伝えられるゴダール監督だが、私の想像では、”superbe!”「最高だ!」とつぶやきながら亡くなったと思う。
これだと、形容詞だろうと名詞だろうと結論に変わりはないだろう。
合掌。
私が大学生であったころーかれこれ30年ほど前、都内のあちこちにミニ・シアターがあった。
特に池袋にはその手の映画館がいくつもあり、料金もお手頃なので、学生にとってはありがたかった。
池袋の東口には「ACT2」(アクトツー)というミニ・シアターがあり、しょっちゅうゴダール特集をやっていて、私もよく行ったものだった。
ゴダール作品の中でも一番のお気に入りは、A bout de souffle 「勝手にしやがれ」で、当時買った台本(勝手にしやがれ)は今でも持っている。
最大のテーマは、監督が言う通り、「死を考える青年と、死を考えない若い女性」との間のディスコミュニケーションであり、拡張解釈すれば、人間同士のディスコミュニケーションである。
それを最もよく示すのがラストシーンである。
勝手にしやがれ
「ミシェル: c’est vraiment dégueulasse.
セ ヴレモン デギュラス
本当に最低だ
パトリシア: Qu’est-ce qu’il a dit ?
ケ ス キラ ディ?
彼は何て言ったの?
警官: Il a dit : Vous êtes vraiment une dégueulasse.
イ ラ ディ、ヴ ゼット ヴレモン ユヌ デギュラス
あなたは本当に最低な女だと。
パトリシア: Qu’est ce que c'est dégueulasse ?
ケスク セ デギュラス?
最低って何のこと?」
ミシェルは、「(俺の人生は)最低だ」と言ったのだが、警官は、アメリカ人のためフランス語を十分理解していないパトリシアに「最低の女だとよ」と、歪曲して伝える。
ここで、形容詞:dégueulasse「ひどい、最低な」が、”une” のついた名詞:dégueulasse「ひどい女、最低の女」にすり替わっているのだ。
さて、安楽死したと伝えられるゴダール監督だが、私の想像では、”superbe!”「最高だ!」とつぶやきながら亡くなったと思う。
これだと、形容詞だろうと名詞だろうと結論に変わりはないだろう。
合掌。