Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

翻訳の工夫(5)

2022年09月18日 06時30分35秒 | Weblog
ランボー「永遠」 Rimbaud ≪ L’Éternité≫
 「1872年、彼はヴェルレーヌと一緒にあちこち放浪していた。
 そして、腹が減ったとか(「飢餓のコメディ」)、我慢しよう(「忍耐祭り」)といった気持ちを、歌うようにして詩にした。
 「永遠」もそうした詩の一つ。
 その後、『地獄の季節』(1873)の中で、「言葉の錬金術」によって生み出された詩として歌われることになる。

 「1872年5月という日付が記されている原稿の「永遠 L’éternité」では、『地獄の季節』に掲載された版と、少し違いがある。
・・・違いは、« la mer mêlée / Au soleil »と« la mer allée / Avec le soleil »。
・・・海と関係する動詞が、alléeからmêléeに変えられていることで、海と太陽がより強く一体化して表現されている。
 ただし、allée は、中原中也等が訳しているような、「去(い)ってしまう」「去る」という意味ではなく、太陽と共に進むという意に介した方がいいだろう。


対訳 ランボー詩集 フランス詩人選1 中地義和 編
 (地獄の一季節(1873年)について)「1872年の版「太陽と/行ってしまった海」がはらんでいた、遠ざかりのダイナミズムはここにはない。」(p222)

 「永遠」と題するランボーの詩には、1972年のものと、「地獄の一季節」の「言葉の錬金術」中にある1973年のものの、2つのヴァージョンがある。 
 この2つでは、« la mer allée / Avec le soleil »と« la mer mêlée / Au soleil »という所に違いがある。
 この箇所の解釈は、非常に難しい問題をはらんでいる。
 1872年版では、おそらく、太陽が海とともに「見えなくなる」というところに重点があるだろう。
 中地先生も指摘するように、ここで「永遠」は、可視的/不可視的を行き来する「間欠的」(p222)なもの(ゆえに retrouvée 「また見つかった」)として把握されているようだ。
 ところが、1873年版ではそのようなニュアンスがなく、海が太陽に「混じった」ところ、つまり、流動的なものが恒久的なものと渾然一体化しているところに「永遠」の相を見たという意味合いがありそうだ。
 これを踏まえて、”回顧的な視点”から、1872年版の例の箇所を訳してみると、次のようになるかもしれない。

 「それは、太陽と連れ立って行った海だ

 
コメント
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