牧阿佐美追悼公演 「飛鳥 ASUKA」(全幕)
「舞台は、いにしえの大和の都・飛鳥。美(芸術)と権威の象徴として人々の信仰を集める竜神と、竜神に仕える舞殿の中でも特に美しく一番の舞の手であった、春日野すがる乙女。
すがる乙女は竜神に舞を奉納する舞女の栄誉を与えられますが、それは竜神の妃として捧げられ、二度と地上に戻れないことを意味します。すがる乙女は終生を芸術の神に仕えることを決心します。
一方、幼なじみの岩足は、美しく成長したすがる乙女の舞を見て思いを抑えることができず、春を告げるこぶしの花と共に愛の心を伝えますが時すでに遅く、すがる乙女は竜神と共に昇天してゆきました。」
牧阿佐美先生の追悼公演。
だが、しばらく前に同じ東京文化会館で観た・聴いた「パルジファル」を思い出してしまう。
飛鳥の人々は、乙女を竜神に捧げることによって「権威と権勢」を手に入れる。
ここで既に réciprocité (レシプロシテ:互酬性、相互依存)の構図が出ている。
すがる乙女は「権威と権勢」の代償であり、 échange (エシャンジュ)の客体とされたことが明白である。
対する岩石(いわたり)は、すがる乙女に「こぶしの花」」を捧げようとするが、「花」は周知のとおり、「代償を求めない」贈り物であり、échange の対極にあるもの(ここでは「愛」)を象徴している。
・・・という風に、この物語には、(集団間での)人身供犠と、それに対する(個人の)抵抗という、普遍的な構造があらわれているのである。
だが、「パルジファル」と同じく人身供犠がテーマではあるものの、「パルジファル」がréciprocité (ないし人身供犠)についておよそ批判的でなかったのに対し(「共苦」の正体(2))、「飛鳥 ASUKA」は全くそうではない。
作者は、おそらくギリシャ神話(特にソフォクレス)や「ウェルギニア伝承」にシンパシーを感じるタイプの人間ではないかと思う。
・・・まあ、いずれにしても、東京文化会館という所は、人身供犠が繰り広げられる「カマリナ沼」のようなところだ。
改めて牧阿佐美先生に合掌。
「舞台は、いにしえの大和の都・飛鳥。美(芸術)と権威の象徴として人々の信仰を集める竜神と、竜神に仕える舞殿の中でも特に美しく一番の舞の手であった、春日野すがる乙女。
すがる乙女は竜神に舞を奉納する舞女の栄誉を与えられますが、それは竜神の妃として捧げられ、二度と地上に戻れないことを意味します。すがる乙女は終生を芸術の神に仕えることを決心します。
一方、幼なじみの岩足は、美しく成長したすがる乙女の舞を見て思いを抑えることができず、春を告げるこぶしの花と共に愛の心を伝えますが時すでに遅く、すがる乙女は竜神と共に昇天してゆきました。」
牧阿佐美先生の追悼公演。
だが、しばらく前に同じ東京文化会館で観た・聴いた「パルジファル」を思い出してしまう。
飛鳥の人々は、乙女を竜神に捧げることによって「権威と権勢」を手に入れる。
ここで既に réciprocité (レシプロシテ:互酬性、相互依存)の構図が出ている。
すがる乙女は「権威と権勢」の代償であり、 échange (エシャンジュ)の客体とされたことが明白である。
対する岩石(いわたり)は、すがる乙女に「こぶしの花」」を捧げようとするが、「花」は周知のとおり、「代償を求めない」贈り物であり、échange の対極にあるもの(ここでは「愛」)を象徴している。
・・・という風に、この物語には、(集団間での)人身供犠と、それに対する(個人の)抵抗という、普遍的な構造があらわれているのである。
だが、「パルジファル」と同じく人身供犠がテーマではあるものの、「パルジファル」がréciprocité (ないし人身供犠)についておよそ批判的でなかったのに対し(「共苦」の正体(2))、「飛鳥 ASUKA」は全くそうではない。
作者は、おそらくギリシャ神話(特にソフォクレス)や「ウェルギニア伝承」にシンパシーを感じるタイプの人間ではないかと思う。
・・・まあ、いずれにしても、東京文化会館という所は、人身供犠が繰り広げられる「カマリナ沼」のようなところだ。
改めて牧阿佐美先生に合掌。