(日本の安全保障に関する初歩的な確認事項(続き))
「「反撃」は復仇(やり返すこと)と見なされる。・・・
幾らこちらが「発射基地だけを攻撃するのだ」と言い訳しても(発射基地自体散開している、もしくは機動的でありうる)、全面的な撃ち合いになり、その場合結局相手との体力勝負になる。すると、さしあたり中国を想定するならば、そして北朝鮮だけに相手を限定することが不可能である以上、これに対して全面戦争をすることになる。だから、中国との全面戦争というものを検討しなければならなかったはずである。」(p57)
「第二の逃げ道は、「抑止力」である。・・・
しかし、このロジックは爆笑ものである。・・・
トゥーキュディデースは、脅威作出戦術予防効果論を、本当にやってみせなければ相手にとって脅威にならない、恐怖の心理を植え付けられない、結局やって見せることになり、予防にならず、泥沼戦争を招く、と当時のアテーナイの軍事戦略を批判した。」(p58~59)
「岸田文雄首相は27日の衆院予算委員会で、政府が保有を決めた敵基地攻撃能力(反撃能力)の手段を巡り、相手国の領空に自衛隊機が入って軍事施設を爆撃する可能性を問われ「あり得る」と述べた。 」
「敵基地攻撃」が全面戦争を招くことは容易に予想されるところだが、政府内で、中国との全面戦争を具体的に検討した気配はない。
常識で考えれば、局「内」中立というのが、ほぼ唯一に近い選択肢と思われるが、なぜかこれは排除されている。
そして、国家による軍事分野への投資が、その内容を決める前に「額」だけ先行して決められてしまう。
こんな風に、「敵基地攻撃能力」→軍事一点集中の「国家主導投資」というあらっぽい話が出てきたのはなぜか?
それは、やはり、長年続いてきた「棒倒し」(木庭先生の言葉によれば、「絶望的な最後の万歳突撃」)をしたくてたまらない集団が、国の中枢に存在するからである。