「【第3幕】楽器職人クレスペルの娘アントニア。名歌手だった母譲りの素養を持っていたが、胸を病み父親から歌うことを禁じられていた。しかし、悪魔のような医者ミラクルが亡き母親の亡霊を呼び寄せ、アントニアが歌うよう誘惑する。歌い続けるアントニアは、ついに死んでしまった。 」
オッフェンバックは、このオペラを完成させなかったので、当初から改作や調整が加えられていたということである。
そのせいで、第5幕は「木に竹を接いだような」不自然なエンディングとなっている。
「人は愛によって大きくなり、涙によっていっそう成長する。・・・
あなたの心の中の灰から、天賦の才が燃え立つのです!
晴れやかな気持で、あなたの苦しみに微笑みかけなさい!
ミューズは、あなたが祝福した苦しみを和らげるでしょう……」(p197)
このエンディングが不自然だと言えるのは、オッフェンバックは、ここに至るまでに、「愛」と「芸術」は両立しない、つまりトレードオフ関係にあるというテーマを繰り返し謳っているからである。
ホフマンの人生がそのとおりだし、いちばん分かりやすいのは、上に引用した第3幕のアントニアである。
優れた歌手だが、歌うことが病気を悪化させる状況に陥ったアントニアは、ミラクルから次のように唆され、結局死に至る。
「お前はもう歌わないのか?お前の青春に対してどんな犠牲が求められているのか知ってるか、そしてお前はそれを考えたことがあるか?
気品、美、天賦の才、天がお前に授けた、これら全ての宝を埋もれさせなければならないのか
夫婦生活の影の中に?」(p139)
ここに明瞭にあらわれているのは、「芸術家は、「愛」に生きることを断念して、芸術の道に全身全霊を傾けなければならない」というテーマである。
第3幕には sacrifice(犠牲) という単語が頻出するが、「ホフマン物語」においては、「タンホイザー」と同様、芸術家はなぜか”贖罪”を行わなければならないものとされている。
但し、「タンホイザー」ではエリーザベトの死(人命供犠)とタンホイザー自身の巡礼という”贖罪”がなされるのに対し、「ホフマン物語」では「愛の断念」とういう形で”贖罪”がなされるという違いがある。
私見では、この思考の根底には、やはり旧約聖書的な死生観(モース=ユベール・モデル。命と壺(5))があるように思う。
この「芸術のための自己犠牲」という発想は極めて不健全であり、「オッフェンバック病」とでも呼ぶのがよいかもしれない。