Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

オッフェンバック病

2023年03月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「【第3幕】楽器職人クレスペルの娘アントニア。名歌手だった母譲りの素養を持っていたが、胸を病み父親から歌うことを禁じられていた。しかし、悪魔のような医者ミラクルが亡き母親の亡霊を呼び寄せ、アントニアが歌うよう誘惑する。歌い続けるアントニアは、ついに死んでしまった。

 オッフェンバックは、このオペラを完成させなかったので、当初から改作や調整が加えられていたということである。
 そのせいで、第5幕は「木に竹を接いだような」不自然なエンディングとなっている。

 「人は愛によって大きくなり、涙によっていっそう成長する。・・・
 あなたの心の中の灰から、天賦の才が燃え立つのです!
 晴れやかな気持で、あなたの苦しみに微笑みかけなさい!
 ミューズは、あなたが祝福した苦しみを和らげるでしょう……」(p197)

 このエンディングが不自然だと言えるのは、オッフェンバックは、ここに至るまでに、「愛」と「芸術」は両立しない、つまりトレードオフ関係にあるというテーマを繰り返し謳っているからである。
 ホフマンの人生がそのとおりだし、いちばん分かりやすいのは、上に引用した第3幕のアントニアである。
 優れた歌手だが、歌うことが病気を悪化させる状況に陥ったアントニアは、ミラクルから次のように唆され、結局死に至る。

 「お前はもう歌わないのか?お前の青春に対してどんな犠牲が求められているのか知ってるか、そしてお前はそれを考えたことがあるか?
 気品、美、天賦の才、天がお前に授けた、これら全ての宝を埋もれさせなければならないのか
 夫婦生活の影の中に?」(p139)

 ここに明瞭にあらわれているのは、「芸術家は、「愛」に生きることを断念して、芸術の道に全身全霊を傾けなければならない」というテーマである。
 第3幕には sacrifice(犠牲) という単語が頻出するが、「ホフマン物語」においては、「タンホイザー」と同様、芸術家はなぜか”贖罪”を行わなければならないものとされている。
 但し、「タンホイザー」ではエリーザベトの死(人命供犠)とタンホイザー自身の巡礼という”贖罪”がなされるのに対し、「ホフマン物語」では「愛の断念」とういう形で”贖罪”がなされるという違いがある。
 私見では、この思考の根底には、やはり旧約聖書的な死生観(モース=ユベール・モデル。命と壺(5))があるように思う。
  この「芸術のための自己犠牲」という発想は極めて不健全であり、「オッフェンバック病」とでも呼ぶのがよいかもしれない。
 
コメント
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