「今月3日に亡くなったノーベル文学賞作家、大江健三郎さんの作品が改めて注目を集めていることから複数の出版社が文庫本などの増刷を決めています。・・・
講談社は日本の戦後世代を克明に描いた「万延元年のフットボール」など文庫本9作品を増刷し、帯に追悼のメッセージを載せるということです。 」
平成のはじめころ、柄谷行人氏は、「三島由紀夫と大江健三郎という2人の巨人の支配する領域から、我々は一歩も抜け出すことが出来ないだろう」という趣旨のことをおっしゃっていた。
確かに、日本浪漫派出身で日本の古典と日本語の表現に通暁した作家(前者)と、ジャン・ポール・サルトルに傾倒する国際主義の作家(後者)とは、分かりやすい対照をなしているように思える。
だが、その後、日本人の(純文学)小説離れはどんどん進み、今や三島や大江の小説を読む大人はごく少数で、こどもに至っては探すのが難しいくらいだろう。
この背景には、社会の変化やインターネットの登場などもあるが、何よりも、小説家の力不足の問題が大きいと思う。
つまり、「われわれの現実そのものが完全に震撼された」ように感じさせる小説が、どんどん減って行ったのではないかと思うのだ。
「この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさわりしに 、丸き炭取なればくるくると回りたり」という件である。ここがこの短い怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。この一行のおかげで、わずか一ページの物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、はるかに見事な小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を残すのである。 こんな効果は分析し説明しても詮ないことであるが、一応現代的習慣に従って分析を試みることにしよう。 ・・・
目の前を行くのはたしかに曾祖母の亡霊であった。認めたくないことだが、現れた以上はもう仕方がない。せめてはそれが幻であってくれればいい。幻覚は必ずしも認識にとっての侮辱ではないからだ 。われわれは酒を飲むことによって、好んでそれをおびき寄せさえするからだ。しかし「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり」と来ると、もういけない。この瞬間に、われわれの現実そのものが完全に震撼されたのである。」
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」なども、「遠野物語」と似たような脳内体験をもたらしてくれるが、こうした魔力を持つ小説(家)が減ってしまったために、小説の衰退が
進んだのではないだろうか?
さて、私の本棚の奥に眠っていたのは、「万延元年のフットボ-ル」。
発刊直後の昭和63年に800円で購入したものが、今ではなんと2090円で売られている。
ちなみに、全く読んでいない。
果たして、この小説は、「現実が震撼される」ような体験をもたらしてくれるのだろうか?
大江健三郎先生に合掌。