トゥーランドット「1903年2月23日、カー・マニアでスピード狂だったプッチーニは自動車事故で大腿骨骨折という大怪我を負う。この時に彼の身の回りの世話をするために雇われた女性がドーリア・マンフレーディだった。ドーリアは当時まだ16歳の少女だったが、献身的にプッチーニにつくし、プッチーニが回復してからも小間使いとして雇われていた。
5年がたって美しい女性に成長したドーリアに対して、プッチーニ夫人のエルヴィーラは嫉妬して、夫と彼女の仲を疑い、ドーリアを誹謗中傷して解雇してしまう。エルヴィーラに罵倒されたドーリアは、じっと我慢していたが、ついに1909年1月23日、服毒自殺をはかり、5日後に死んでしまった。死後検死解剖の結果ドーリアは処女だったことが判明して、マンフレーディ家はエルヴィーラを訴えた。プッチーニは必死に事後処理をして、最終的には示談金を払って決着させた。これが俗に言う<ドーリア事件>だ。」(232)
トゥーランドットのリューには、ドーリアというモデルが存在したそうである。
ドーリアは、濡れ衣を着せられ、パワハラを受けた末に解雇された。
その後おそらくうつを発症し、自殺に至ったのである。
そうすると、リューが約15分間舞台上で拷問を受ける場面をプッチーニが描いた意味については、わざわざ精神分析医の見解を聞く必要はなさそうだ。
つまり、プッチーニは、ドーリアに対する謝罪ないし贖罪の意味を込めて、リューの死に積極的な意味を与えようとしたと考えられるわけである。
こういう風に考えると、ワーグナー病に冒されていたのはプッチーニではなく、エルヴィーラ夫人だったのではないかという気がしてくる。
それにしても、プッチーニは、ドーリアが自殺しないよう、彼女を守るべきだったとつくづく思う。
合掌。