「なお、永守氏の要求への回答は「実現を目指します」や「頑張ります」ではダメなのだという。
「模範解答は『死ぬ気で実現します』です。『死ぬ』というワードが入ると永守さんは喜ぶ」(同前)
日本電産ではこうした幹部が出席する会議は週末に開かれる。
「しかも土日は永守さんから幹部に一斉メールが次々と送られてくるので、これに即座に回答しなければなりません。精神的に全く休めませんが、永守さんは『代わりはいくらでもいる。休みたい奴は辞めろ』と公言しています」(同前)」
「代わりはいくらでもいる」という発言は、「アンティゴネ」に出て来るエシャンジュ大好き人間:クレオーンのセリフとほぼ同じである。
創業者/一族を「祖霊」として神格化し、枝分節集団化した法人、すなわち「カイシャ」は、いまだにたくさん存在する(命と壺(8))。
ポイントは、創業時のエピソード、典型的には「自分を犠牲にして、身を粉にして働いた」などという話を”神話”化するところである(というか、”神話”は定義上、「枝分節集団をつくるためのストーリー」である。)。
昭和・平成の時代には、これを「創業神話」として、メディアなどが活発に喧伝していた。
「日本の(それと意識されさえしない)多元主義は市民社会前の集団のエシャンジュとレシプロシテにさおさし、おぞましいものとなる。これを必死に美化する(破綻後に手打ちする)ために宗教や奇妙な「倫理」が動員される。・・・地下のメカニズムが浮上するとき、経営者の成功物語にさえなり、その犠牲強要をモデルとして経済社会全体が方向付けられる。」
「経営者が宗教ないし疑似宗教的倫理運動を従業員に押しつけることがある。屋上に祠を構え礼拝させたり、奇妙な訓示を聞かせたりする、などである。明らかな信教の自由侵害である。」(p81~84)
令和の時代になると、さすがに「創業神話」を真に受ける人たちは少なくなり、上に引用したような批判的なメディアも出て来た。
もっとも、これが”成長”と言えるのかどうかについては、今後の展開を注視していく必要があるだろう。