「ベートーヴェンの情熱とショパンのそれとのちがい。
両者とも既成の形式をこえる。しかし、ベートーヴェンの場合は、生の充溢が形式をこえるところに、必然的に新たな形式が生れている。構成美そのものは崩れない。アパショナータやエロイカの見事な様式上の緊密性と統一性!
ショパンはいわば最初から崩れている。ショパンの発想そのものが形式に適さない。形式のなかでの緊張がギリギリまでのぼりつめて、ついに枠をやぶった、というのではない。」(p39)
私は、丸山先生や我妻先生のような”知の巨人”の誤りや勘違いを見つけてひそかに安心する習慣があるのだが、上に引用したくだりにも、「丸山先生の錯覚?」を見つけたような気がする。
果たして、ショパンの発想は「形式に適さない」のだろうか?
「ショパンは、友人のリストから『バッハの息子』と呼ばれていました。バラード4番を作曲する前は、ケルビーニの教本で対位法を勉強し直します。・・・バラード、特にこのバラード4番は、対位法を駆使した、バッハのようなポリフォニックな特徴を持った場面に溢れています。」(表現は私の記憶に基づいて再現)
もともとショパンは「バッハの息子」であり、1840年ころ以降は特にその傾向が強まっていた。
なので、当然のことながら、彼は「形式」を非常に重んじていたわけである。
というわけで、丸山先生の上の指摘は”錯覚”(先生には珍しい過度の一般化)であり、例えば夜想曲などには妥当するとしても、バラードなどには妥当しないというのが正しいようだ。