第1部「ディアナとニンフである女狩人たちが、休憩と水浴びをしに森に現れる。シルヴィアとアミンタが出会う。ディアナと女狩人たちは、甘く語らい合う羊飼いアミンタとシルヴィアを見つける。
驚いたシルヴィアは、アミンタを裏切ってしまう。」
第2部「シルヴィアは自分の女らしさに目覚め始める。そして快楽を覚える。
官能に燃えるシルヴィアはディアナとアミンタを思い、心乱れる。」
第3部「長い年月の後、アミンタが聖なる森に戻ってくる。シルヴィアも聖なる森に戻る。二人は再会する。愛は一瞬、甦るかにみえた。
ディアナが彼らを観ている。ディアナは2人を引き裂きたい誘惑にかられるが、アムールがディアナから武器を取り上げる。
結局、アミンタからシルヴィアを奪ったのは、寿命だった。
ディアナは一人残される、永遠の女狩人として。」
原作:タッソーの詩は、アムール=「(エスの)衝動」、ディアナ=「超自我」、そしてシルヴィア=その間で葛藤に苦しむ「自我」と考えると分かりやすい。
「(幼児期の)エスに対する自我の態度は外界から命令されたものにすぎない。すなわち、両親からの約束と威嚇、愛してもらえるかもしれない、罰せられるかもしれない、という期待にたよってエスに対抗している。」(p177)
「小さい子どもの場合には、自我があって葛藤が生ずるのではなく、自我は葛藤の産物なのである。生涯を通じて衝動を克服することを任務としている自我の一つの機能は、エスの衝動の要求と同時に、外界から与えられる現実不安の影響をうけて、幼児期につくられる。衝動の怒涛と外界からの圧力の二つの力を調和するように、自我はあつらえてつくられたものである、といわれる。」(p179)
シルヴィアは、自分の太ももに頬ずりするアミンタの行為の意味を理解することができず、困惑のうちに彼を拒絶してしまう。
このときのアミンタの行為は、ディアナ=「超自我」に同一化して狩人=「主体」になり切っていた彼女が、初めて愛の対象=「客体」化されたことを意味していた。
その後、シルヴィアはアミンタの行為の意味を理解するようになり、自分が「客体」として扱われることに快感すら覚えるようになる(第2部ではシルヴィア=菅井さんのハーレムが描かれ、菅井さんはひたすら男たちにリフトされる。)。
数十年を経てシルヴィアとアミンタは森で再会するが、時既に遅く、シルヴィアには「寿命」が訪れ、二人が結ばれることはなかった・・・。
さて、ノイマイヤー版のストーリーについて言うと、私見では、ディアナが一番よくないキャラクターだと思う。
というのは、彼女はひたすら相手を「客体」にして、マウントを取ることに終始しているからである。
その極致が、彼女(というか彼女の父であるゼウス)によって永遠の眠りに就かされたエンディミオンであり、彼はディアナによって永遠に「客体」たる地位に置かれてしまったのである(もしかすると、これが川端康成の「眠れる美女」のモデルかもしれない。)。
のみならず、ディアナはシルヴィアまでも自分の拡張自我=「客体」にしようとして、シルヴィアとアミンタの仲を裂こうとした。
これに対して、グッジョブだと思うのはやはりアムールで、彼はシルヴィアに、愛(「主体」と「客体」の間を交換的に行き来すること)、すなわち、西欧の文法に従うと「自我の相互拡張」を教えたのである。