指揮:リッカルド・ムーティ
アイーダ(ソプラノ):マリア・ホセ・シーリ
ラダメス(テノール):ルチアーノ・ガンチ※
アモナズロ(バリトン):セルバン・ヴァシレ
アムネリス(メゾ・ソプラノ):ユリア・マトーチュキナ
ランフィス(バス):ヴィットリオ・デ・カンポ
エジプト国王(バス):片山将司
アイーダ(ソプラノ):マリア・ホセ・シーリ
ラダメス(テノール):ルチアーノ・ガンチ※
アモナズロ(バリトン):セルバン・ヴァシレ
アムネリス(メゾ・ソプラノ):ユリア・マトーチュキナ
ランフィス(バス):ヴィットリオ・デ・カンポ
エジプト国王(バス):片山将司
客席から、「チケット完売だってよ」という声が聞こえてきたが、確かに、5階席までほぼ埋まっている。
この要因は、やはり、指揮者(ムーティ―氏)と演目(「アイーダ」)にあるのだろう。
それにしても、ムーティ―氏の人気の凄いこと。
彼が初めて登場した瞬間、割れんばかりの拍手が始まり、ブラヴォーを叫び出しそうなファンの熱気が会場に充満する。
チラシを見ても、彼がタクトを振る姿の写真の上に、
「聴き逃すな!日本で、帝王ムーティ―のヴェルディを聴けるのは東京春祭だけーーー」
とある。
ワーグナーの写真でデザインされた「トリスタンとイゾルデ」「ワーグナー・ガラ」のチラシ(Tristan_WagnerGala.pdf (tokyo-harusai.com) )とは対照的である。
このように”偶像化”されているムーティ―氏だが、「帝王」と言われるだけあって、彼の指導は、少なくとも日本人の歌手からは、ヤノフスキ氏と並んで「怖~い」と恐れられているようだ。
歌手に「譜面を見て歌うこと」を求めるだけでなく、歌手にはステージ上を動く自由もない(まあ、これは、合唱が入る関係でスペースに余裕がないということもあるが・・・。)。
もちろん、「譜面を見て歌うこと」以外にも、彼の指導には特色がある。
「私たち音楽家は、職業として演奏しているわけではないのですね。ミッション、つまり使命としてやらなくてはいけないことだと思っています。
私がイタリアで設立した若い音楽家たちによるオーケストラ「ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団」で、私は彼らにいつもこう言っています。劇場にやって来るお客様はただ美しい音を聴くためじゃない、魂のこもった音を求めているのだと。だから、習慣として演奏するということは、音楽をやるうえで最も大きな敵だと思います。
昨日の《アイーダ》の稽古中のことですが、ヴァイオリン奏者たちがとてもきれいな音を出しました。「あなたたちの音は素晴らしい。美しい。だけど空っぽだ」と私は言いました。音に魂が宿っていなかければ美ではありません。」
私がイタリアで設立した若い音楽家たちによるオーケストラ「ルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団」で、私は彼らにいつもこう言っています。劇場にやって来るお客様はただ美しい音を聴くためじゃない、魂のこもった音を求めているのだと。だから、習慣として演奏するということは、音楽をやるうえで最も大きな敵だと思います。
昨日の《アイーダ》の稽古中のことですが、ヴァイオリン奏者たちがとてもきれいな音を出しました。「あなたたちの音は素晴らしい。美しい。だけど空っぽだ」と私は言いました。音に魂が宿っていなかければ美ではありません。」
「アイーダ」になぞらえて言うと、ムーティ―氏の考えでは、”forma divina”(神々しいフォルム)(「清きアイーダ」の一節)だけだと「空っぽ」であり、そこに"anima"(魂)がこもっていなければ「美」ではない。
それくらい、要求水準がメチャクチャ高いのである。
それはともかく、私は職業柄、音楽に携わる人たちの「人間関係」にフォーカスしてしまう癖がある。
つまり、指揮者と歌手やオーケストラ団員たちの関係に目が行ってしまうのである。
こうした観点からすると、私見では、「ステージ上の民主主義」に限って言えば、その度合いは
「ラ・ボエーム」 ≧ 「エレクトラ」 ・・・・・・>「アイーダ」
という順番になる。
ところが、これがなぜか、チケットの売れ行きとほぼ反比例しているのである。