「ラモーもラヴェルも、ラフマニノフにしても、鍵盤とオーケストラいずれかの版がトランスクリプションというのではなく、併存する原イメージとして構想されていたと考えられるからだ。
とすれば、ピアノにはたんに多彩な楽器を模倣するのではなく、ピアニスティックな想像力で作品像を具現化することが求められる。ラフマニノフの曲題にとどまらず、〝シンフォニック・ダンセズ〟というのが、ピアノによるオーケストラ音楽を集めた本プログラムに交響するテーマだ。バルナタンはこれを鮮やかに叶えるべく、抜群の運動神経と鋭敏な知性を存分に揮った。」
とすれば、ピアノにはたんに多彩な楽器を模倣するのではなく、ピアニスティックな想像力で作品像を具現化することが求められる。ラフマニノフの曲題にとどまらず、〝シンフォニック・ダンセズ〟というのが、ピアノによるオーケストラ音楽を集めた本プログラムに交響するテーマだ。バルナタンはこれを鮮やかに叶えるべく、抜群の運動神経と鋭敏な知性を存分に揮った。」
ラモー:「新クラヴサン組曲集」より 組曲ト長調 RCT6
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ストラヴィンスキー(G・アゴスティ編):バレエ音楽「火の鳥」より
魔王カスチェイの凶悪な踊り
子守歌
終曲
ラフマニノフ(バルナタン編):交響的舞曲Op.45
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ストラヴィンスキー(G・アゴスティ編):バレエ音楽「火の鳥」より
魔王カスチェイの凶悪な踊り
子守歌
終曲
ラフマニノフ(バルナタン編):交響的舞曲Op.45
青澤隆明さんも指摘するとおり、共通のテーマがあるからだ。
それは、「音によるダンス」である。
このことは、バルタナンの”跳ねる”ような演奏スタイルを見ればすぐ分かる。
もっとも、ダンスは、人間のダンスとは限らない。
ラモーの《新クラヴサン組曲集》より組曲ト長調の「雌鶏」を聴いて、私には遠い中学生時代の記憶が蘇った。
毎朝川でクレッソンを収穫し、これを包丁で切り刻んで米ぬかや残飯類とまぜたものを彼女たちに提供する代わりに、彼女たちが産んだ卵をごはんにかけて食べる毎日を繰り返していたのである。
雌鶏が首を細かく動かしながら神経質そうに歩く様子は、おそらく多くの人が見ていると思うが、私はこれを四六時中見ていた。
なので、雌鶏の動きは私の記憶の深いところに沈着していたのだが、ラモーの音楽は、私の脳の内奥を刺激したのである。
ところで、こうした音楽による情景の描写は、音楽史では「音画」(的表現)と呼ばれてきたようだ(ドイツリートにおける「音画」って?)。
交響曲だとヴェートーベンの「田園」の嵐などが挙げられるし、ピアノ曲だとムソルグスキーの「展覧会の絵」は「音画」の典型だろう。
だが、考えてみると、「音」は、「静止画」を表現するのには適していない。
「沈黙」なら静止状態を表現できるかもしれないが、「音」はそもそも空気の振動だからである。
なので、これを耳で受け止めた人間は、「動き」をアウトプットしてしまうのではないだろうか?
というわけで、私は、「音画」ではなく、「音動画」あるいは「音舞」という表現の方が良いように思うのである。