指揮:マレク・ヤノフスキ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
春祭常連指揮者であるM.ヤノフスキは、R.ムーティ―らと並んで「怖~い」指導で有名らしく、特にヤノフスキは、「譜面を見て歌うことを望む。正確に歌わせたいからだ。演出や映像は無用。音楽が全てを語っているとの強い信念だ!」(日本ワーグナー協会季報「リング」175)という”音楽原理主義者”。
この考え方だと演出家や舞台や衣装のデザイナーさん、照明さんなどの存在意義は無くなってしまう。
もっとも、歌手の皆さんは指揮者に必ずしも忠実ではなく、スチュアート・スケルトン(トリスタン役)とフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(マルケ王役)は譜面を使わず、マルクス・アイヒェ(クルヴェナール役)もときどき譜面を見る程度だった。
つまり、半ば”学級崩壊”したクラスと化していた。
むしろムーティー(歌手を中央に集めて移動させず、自分の指揮を見るよう指導しているのか?)の方が、厳しい先生のように思える。
さて、ワーグナーは、この作品によって、「17世紀以来の西洋音楽の機能和声(和音の根音と各調性の主音との関係には規則的な役割と機能があるなどとする考え方)が崩壊していく〝呼び水〟のような役割を果たした」といわれたらしい(連載《トリスタンとイゾルデ》講座~《トリスタンとイゾルデ》をもっと楽しむために vol.1)。
そうすると、ワーグナーは「トリスタン」によってバッハ以降の伝統をぶち壊してしまったのかと思いきや、必ずしもそうではないようだ。
その理由は、各幕全体に亘って使用されている「無限旋律」にある。
「特に<無限旋律>がバッハの音楽に負うところの大きいのは、注目すべきである。<平均律曲集>第一集の、<変ホ短調プレリュード>を演奏したのちワーグナーは、「これが私に私の筆法をあたえたのだ」と言った。「いかに多くの音楽作品が、私のそばを何の印象もあたえずに過ぎ去ったか、ほとんど信じがたいほどだ。しかしこれこそは、私を決定した。これは無限である。そしてこのようなものを、誰も二度と作らなかった!」この<プレリュード>の中にこそ、無限旋律は予示 praformiert されており、ここでは旋律の連続性付与に成功している、とワーグナーは考えた。」(p67)
というわけで、「「無限旋律」はバッハの手法を継承・発展させたものである」というのがワーグナーの主張である。
舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』より
序夜《ラインの黄金》より第4場「城へと歩む橋は……」〜 フィナーレ
ヴォータン:マルクス・アイヒェ(バリトン)
フロー:岸浪愛学(テノール)
ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
フリッカ:杉山由紀(メゾ・ソプラノ)
ヴォークリンデ:冨平安希子(ソプラノ)
ヴェルグンデ:秋本悠希(メソ・ソプラノ)
フロースヒルデ:金子美香(メゾ・ソプラノ)
ヴォータン:マルクス・アイヒェ(バリトン)
フロー:岸浪愛学(テノール)
ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
フリッカ:杉山由紀(メゾ・ソプラノ)
ヴォークリンデ:冨平安希子(ソプラノ)
ヴェルグンデ:秋本悠希(メソ・ソプラノ)
フロースヒルデ:金子美香(メゾ・ソプラノ)
今年はヤノフスキ氏の指揮を2回見ることになったが、今度は歌手は一応みな「譜面を見て歌う」スタイルを守っていた。
「指環」にも「無限旋律」が随所に登場し、「ジークフリートのラインへの旅(楽劇「神々のたそがれ」から)」はその代表格らしい。
では、「「無限旋律」はバッハの手法を継承・発展させたものである」というのがワーグナーの主張は正しいのだろうか?
これはやはり、「バッハの生まれ変わり」とも言うべきグールドに判定してもらうのがよいと思う。
結論は、”YES” と思われる。
というのは、グールドは、「楽劇『神々の黄昏』~夜明けとジークフリートのラインへの旅 」を編曲・演奏してレコード化しているからである(ワーグナー/グールド編:ピアノ・トランスクリプションズ )。
結論:「ワーグナーは、「機能和声」崩壊の契機をつくったものの、他方で、バッハの「平均律」から「無限旋律」を継承・発展させた。したがって、彼もショパンと並んで「バッハの息子」と呼んでよい。」