どちらも「自我」が関係しているらしいことは、私のような素人でも分かる。
<ケース1>は、多くのお父さん・お母さんが経験していることだろうが、(電車の)「座席」というものが少女にとって何であるかという視点で考えるとよいかもしれない。
「それで、結局は対人関係の問題なのに、なぜ対象ということなのかということになると、これまた発達論にさかのぼるのですけれども、生まれたばかりの赤ちゃんは、相手が人間だということは知らないし、人間の全貌なんて見えていません。赤ちゃんに見えているのは、お母さんのおっぱいとか、顔とか、腕とか、バラバラです。それはオブジェクトに過ぎない。だから、バラバラのオブジェクトとしてしか体験されていない。それがまとまって人間像になっていく。そうするとオブジェクトという言い方が適切だということになって、オブジェクトとしか言いようのない段階からの発達を扱っているということです。
だから、大人になってみれば、オブジェクトは人間と同じです。それならば、内在化された対人関係と言っても構わない。けれども、それを対象関係と言い表すには今言ったような根拠があるのです。」(p40~41)
そう、「座席」は少女にとっては”オブジェクト”なのであり、それが人であるか物であるかは差し当たり関係ない。
さらに、赤ちゃんや幼児の場合、それが自己であるか他の人間・物であるかすら不分明である。
ここで、”オブジェクト”の起源が一体何であるかを考えてみると、私見では、結局「自分の身体」というほかないのではないかと思う。
つまり、赤ちゃんや幼児(あるいはそれに近い大人)は、”オブジェクト”を「自分の身体」の延長としてとらえていると思うのである。
なぜなら、人間にはもともと「自体愛」の本能があるからである(おやじとケモノと原初的な拒否)。
なので、フロイト先生であれば、
「電車の座席は、少女の”erweiterten Ich”(拡張された自我)、というか、”erweiterten Leib”(拡張された身体)じゃよ。
だから、これを奪われた少女は、自分の体が踏んづけられたと感じたんじゃないかな?」
などと説明するのかもしれない。
確かに、そういえば、声と全身で表現された少女の激しい怒りは、赤ちゃんや子供が怪我をした時に示す反応とそっくりだった。