Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

オペラパレス

2022年07月11日 06時30分35秒 | Weblog
象徴主義とリアリズムの間で ―ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』をめぐって
 「文学史上メーテルリンクは演劇における19世紀末象徴主義の代表者とされる。しかし、作曲家ピエール・ブーレーズが指摘するように『ペレアス』の象徴主義は実は「中途半端」である*。神話的に造形された人物が日常的な悲劇に巻き込まれる。象徴主義にリアリズムが入り混じる。確かに道具立てとしては、いわく言いがたい設定が揃っている。人を惑わす森と一輪の薔薇の花、荒れ狂う海と晴れやかな大気、泉の澄んだ水と地下道の淀んだ水、暗闇に佇む物乞いたち、羊たちの群れ、そしてメリザンドの長い金髪。登場人物たちも自らについて語らず、謎を保つ。しかし、台詞自体は凝った表現で書かれているわけでなく、むしろ平明である。平明なのに会話が通じず──メリザンドはあまり質問に答えない──、謎はさらに増す。こうした象徴主義とリアリズムの「相互干渉」(ブーレーズ)にこそ『ペレアス』の特徴がある。端的な例は第四幕第四場でペレアスとメリザンドが〝両想い〟だったことが判明する下り。「愛してる」「私も」という最も陳腐な愛の確認を、ドビュッシーはオーケストラを沈黙させることで象徴的な事件へと変貌させる。

 新国立劇場・オペラパレスでの今シーズン最後のオペラは、「ペレアスとメリザンド」である。
 ”中途半端な象徴主義”といわれても、象徴の正確な理解なくしてこの物語を読み解くことは出来ない。
 「水」と「大気」(非「物体」、無定形なもの)が生命の始原(誕生)と終末(死)の象徴であることは明らかで、これについては演出も一応合格点に達していると思う。
 問題は、メリザンドの「髪」の解釈である。
 「メリザンドの金髪は、ペレアスにとって遠くから眺めている憧れの物質であり、接近不可能性の象徴だった」(村山りおん(則子)氏の解説)という理解すら、この演出家にはないように見受けられる。
 というのも、非常に重要な、ペレアスがメリザンドの長髪を自身に巻き付ける場面が、「ベッドの上」で演じられたからである。
 原文は以下のとおり、塔の上の窓から、下にいるペレアスに向かって、メリザンドの長髪が流れ落ちるというもの。
 ペレアス「あ、これは何・・・・・・君の髪だ。君の髪が、ぼくのほうに降りてくれた・・・・・・君の髪がみんな塔から落ちたのだ・・・・・・しっかりつかんだぞ。くちびるに当てよう・・・・・・両腕で抱き締めよう。僕の首に巻き付けよう・・・・・・もう一晩じゅう、この手は開かないよ・・・・・・」(岩波文庫版・p97)
 これがラプンツェルの本歌取りであることは明白である。
 これを踏まえると、「髪」は天上界(「大気」=生命の起源、接近不可能なもの)と下界とをつなぐ「綱」(産道)であり、「水」及び「大気」と物体との中間(いわば半「物体」?)に位置づけるべきなのである(ちなみに、ラプンツェルは、髪の毛を伝って塔を登ってきた王子によって妊娠させられる。)。
 したがって、「髪」は、ベッドの上で「水平に」流れるのではなく、”上から下に向かって”「垂直に」垂れ下がっていなければならない。
 ここではやはり、小道具(髪の毛様のロープなど)が必須だったと思うのである。
 
 
 
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特定の団体、あるいは特定の宗教団体

2022年07月10日 06時30分04秒 | Weblog
特定団体と安倍氏のつながり「思い込んだ」、奈良県警会見一問一答
 「--山上徹也容疑者の逮捕時の弁解は
「『特定の団体に恨みがあり、安倍元首相がこれとつながりがあると思い込んで犯行に及んだ』と供述している」
--特定の団体とは
「答えを差し控える」


山上容疑者「特定の宗教団体に恨み 関係がある安倍元総理を狙った」 「奈良に来ると知り犯行を決意」 安倍元総理銃撃事件
 「安倍元総理が銃撃され死亡した事件で、逮捕された元自衛官の男が「特定の宗教団体に恨みがあり、その宗教団体と関係がある安倍元総理を狙った」という趣旨の供述をしていることが分かりました。

 今から約30年前、首都圏の大学では、ある宗教団体による学生の勧誘が問題となっていた。
 私も、入学するや否や、オリエンテーションで上級生から、「●●の勧誘には気をつけて!」、「●●ハウスには絶対ついていかないで!」などという注意を頻繁に受けたので驚いた。
 「オルグ」という言葉を覚えたのもこの頃である。
 その後しばらくして、この宗教団体の関係する事件がマスコミで大きく取り上げられるようになり、世間一般に知られるようになった。
 ところが、その後数年すると、世間の話題にのぼることも少なくなり、教団名もいつの間にか変わった。
 最近では、若い人などは、この団体のことを知らない人が多くなっていたと思う。
 いずれにせよ、この蛮行を許すことは出来ない。
 合掌。
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小劇場

2022年07月09日 06時30分16秒 | Weblog
 新国立劇場・小劇場のM. バタフライは、日本では32年ぶりの上演ということだが、連日ほぼ満員の盛況である。
 とはいえ、目の肥えた観客の中には、辛辣な批評をする人もいる。
(以下ネタバレご注意!)

『Mバタフライ」感想というより・・」
 「とても楽しみにしていた舞台だけにこうした改竄に近い解釈を見せられると心が痛みます
観劇前から思い入れが強すぎた‥と自分でも思う。
しかし昨日のMバタフライからは西洋的マチズモやレイプメンタリティへの問題提起もあまり感じられなかった


 だが、私見では、「西洋的マチズモ」や「レイプメンタリティ」といったテーマなど吹き飛ばしてしまうような、もっと重要なテーマがあらわになっていたと思う(ちなみに、作者自身が自作を誤解するのはときどきある現象なので、「自作解題」を鵜呑みにするのは危険である。)。
 二幕の後半のセリフは、私には、殆どプラトンとニーチェの討論のように響いたからである。
 一幕で、ガリマールは、東洋の着物を着て顔にドーランを塗ったソンに、”完璧な女性”、”犠牲に徹する東洋の女性”の理想像を重ね合わせ、一目惚れする。
 二幕で、ソンが実は男であることが暴かれると、ガリマールは、「現実」を否定して「幻想」の中に生きることを決意し、ついに自ら「蝶々夫人」となり、自死を遂げる。
 ニーチェ先生に代わって解説すると、一幕で現れたソンは「仮象」であるが、それにもかかわらずこれを(永遠不変の)「イデア」に仕立て上げてしまったところに、ガリマールの致命的な過ちがあったということになるだろう。
 つまり、「仮象」と「イデア」の取り違えである。
 現実(事物の「内面」・「真理」=ソンの裸)は決して見てはならず、「表面」(仮象=着物とドーラン)に踏みとどまらなければならないというのが、「悦ばしき知識」の序言だった(不朽の言葉(2))。
 ニーチェ先生によれば、「仮象」は常に生成流転しており、個々のものから独立した・不変の「イデア」などというものは存在しないのである。
 ・・・二幕では、思い切って、ガリマール=プラトン、ソン=ニーチェという設定でセリフを改めれば、もっとよい戯曲になると思うのは、私だけだろうか?
 
 
 
 
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言語の暴力的使用

2022年07月08日 06時30分37秒 | Weblog
「なんだ!その態度は!」乗客怒鳴った駅員に物議 識者はどう見る?
 「ただ、枝久保さんは、駅員の物言いはよくなかったとして、次のように指摘した。
「駅員の発言があまりに感情的でコミュニケーションが成立していません。頻出する『態度』というワードは、遺失物拾得のお願いに必要なものではありません。乗客の安全にかかわる場合、故意に列車の運行を停止させようとする場合、駅員は乗客の態度にかかわらず、それを制止しなければならないので、やはりこれも『態度』は関係ありません。『山手線止めた』は事実であり、それが乗客の身勝手な振る舞いによるものであれば、場合によってはJRが被った損害を損害賠償請求することも可能かもしれませんが、駅員が私的な感情で乗客を制裁する権利はありません。『交番(警察)に行く』『事情聴取がある』と懲罰的に語っていますが、これらは制裁ではなく、またその管轄はJRにはありません。結局、誰が何を問題だと言っているのか分かりません」


 私も、この駅員の言動は”アウト”だと思う。
 なぜなら、この駅員は、言語を威嚇の手段、つまり暴力の一種として使用しているからである。
 音楽で言えば、「展覧会の絵」の「サムエル・ゴールデンベルクとシュムレイ」のサムエル・ゴールデンベルクになってしまっている。
 ことばにおいては、それが伝える意味内容より、”言いぶり”、”話し方”の方が重要な場面もあり得るわけである。
 
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芸術家への失望

2022年07月07日 06時30分29秒 | Weblog
キエフ・バレエ支援チャリティーBALLET GALA in TOKYO
 「私が生まれた地、そして私にとって芸術の故郷ともいえるロシアが、両親や親族が 住まう都市キエフを爆撃し始めたのです。唯一の望みは、この想像を絶 する悪夢から目を覚ますことでした。 きっと何百万人ものロシア人が街頭で戦争へ抗議し、すぐにすべてが収まるだろうと期待していました 。しかし、大規模な抗議運動は一切ありませんでした。25年間一緒に踊ってきたロシアの友人や同僚た ちは(ごく僅かの例外を除いて)皆、沈黙を守っていたのです。それは、私の人生で最もつらい失望で した。彼らは何も気にかけていないようで、自分たちの“芸術”を実践することに精一杯だったのです。 それから、国連やNATOといった平和を守るはずの組織が、狂った独裁者が歴史を塗り替えソ連を復活させようとするのを止めてくれるのではないかという期待もありました。どうしてヨーロッパで戦争が 許されるのだろう、と。しかしそれも叶わず、ウクライナは自分より28倍も大きな怪物と戦うために、 一人取り残されたのです。暗黒の時代に逆戻りしたような気がしました。安定感、安全保障、国際法といったものが、ほんの少し触れただけで崩れ落ちる砂の城と化してしまったのです。」(アレクセイ・ラトマンスキー Alexei RATMANSKY)

 「自分たちの”芸術”を実践するだけで精一杯」な友人や同僚たちを見たラトマンスキーの失望は、察するに余りある。
 彼は、「狂った独裁者の暴走を誰も止められない」という悲劇を、見事に指摘している。
 これは他人事ではなく、「抗命義務」の問題が殆ど論じられることのないわが国も、同じ問題を抱えているはずである。
 似たような話で、私の就活時代、ある会社の採用担当者が、「君が●●銀行に入ったとして、大学の先輩でもある上司から、『イ・アイ・イ・インターナショナルに融資しろ』と命じられたら、君はもちろんそれに従うよな?」と言われ、回答に窮したことを思い出した。
 一般的な日本人は、命令に逆らって左遷されること(つまり帰属集団からの孤立)を、何よりも恐れていると思うのだ。
 
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ドスとチャイ

2022年07月06日 06時30分15秒 | Weblog
ドストエフスキー生誕200年
 「Aドストエフスキーは今でもロシアで最も読まれる作家の一人です。
 生誕200年にあたる11日、全面的に改修されたモスクワのドストエフスキーの家をプーチン大統領は訪れました。ロシアテレビはメインニュースのトップで伝えています。
 ロシアテレビキャスター「今日は世界中で生誕200年が祝われています。ロシアにとっては特別な日です」
 この訪問の中でプーチン大統領は「ドストエフスキーは我が国の自由主義者を好きでなかった」と述べたと伝えられています。そして「ドストエフスキーは偉大な思想家で愛国者だった」と記帳しました。


※「キエフ・バレエ・ガラ2022」演目の変更について
 「ウクライナ国立歌劇場は、ウクライナ文化省からの要請により、チャイコフスキーほかロシア人作曲家の楽曲の演奏及び使用を控える事を決定致しました。これに伴う劇場からの依頼により、今夏の日本公演につきましては、該当演目を外すことになりました。
 しかしながら、偉大な先人たちの芸術は、ロシアやウクライナといった国家に帰属するものではなく、世界中全ての人々の宝であると考えます。芸術の素晴らしさは国家間の紛争によっても損なわれることはなく、私たちは、その素晴らしさを後世に伝えていかなければなりません。


 ドスもチャイも人類の至宝であり、その作品は愛国主義を超越している。
 これは光藍社のスタンスが正当であり、この問題については、ウクライナ文化省が間違っていると思う。
 判決主文:
ドス及びチャイはいずれも無罪。
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キャスティング権

2022年07月05日 06時30分14秒 | Weblog
対訳 ペレアスとメリザンド
 「これまで岩波文庫には、欧文テキストと訳文を左右対応させたいわゆる対訳というものはなく,本書が最初という。・・・オペラ『ペレアスとメリザンド』初演の間際に,作曲家と戯曲家は不和となり,不和は裁判沙汰にまでおよんだ。メーテルランクがメリザンド役に妻の女優ジョルジェット・ルブランの起用を強く望んだのに,実現しなかったことが不和の原因だという。つまらぬ話である。」(p218,222)

 ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の予習のため、台本を入手しようとしてアマゾンで探したところ、岩波文庫の古い対訳本しか見つからない。
 結局購入したが、定価500円なのに3000円近くした。
 この本は、岩波文庫における「対訳」のさきがけということで、記念碑的な本でもあるのだ。
 さて、ストーリーは何とも悲しくて美しいが、サスペンス風の展開で退屈させない。
 フランス語も平易で、初心者でも十分読めるレベルである。
 ドビュッシーは、このオペラをつくるために10年近いの歳月費やしたが、初演間際に、メリザンド役の女優のキャスティングを巡って原作者であるメーテルランクとの間でトラブルが発生し、裁判沙汰となった。
 原作者には、当然メリザンドのイメージがあるだろうから、それを壊してしまうような配役であれば、それに反対する気持ちは理解できないではない。
 だが、メーテルランクの場合、どうやらゴリ押しに過ぎないのではないかと思われ、余り共感出来ないのである。
 
 
 
 
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私が担保だ!

2022年07月04日 06時30分27秒 | Weblog
「そごう・西武」売却、ソフトバンクG傘下の米ファンド「フォートレス」に優先交渉権
 「セブン&アイ・ホールディングスが進めている傘下のそごう・西武の売却先として、米投資ファンドのフォートレス・インベストメント・グループが優先交渉権を得たことがわかった。

 「そごう」と言えば、ダイエーとともに業界を席巻した巨大企業だが、今や「諸行無常の響きあり」という感が強い。
 平成の時代に世間を騒がしたそごうの経営破綻問題は、日本の取引社会における「信用の不成立」の象徴でもあった。

そごうの栄枯盛衰に見る絶対強者に生じる綻び 堅牢なビジネスモデルが逆に企業を危うくする
 「例えば、千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形です。地価が上がっていれば、担保によって銀行から新たな資金を調達することができ、そうして新しい店舗を広げていったのです。
 しかし、このサイクルはいくつかの重大な問題をはらんでいます。
 1つ目は、そごうの独立法人同士が支え合う複雑な形になっていたため、経営の内情がブラックボックスになること。これに水島社長のカリスマ性が合わさって、誰もグループ全体の経営状況を把握できない状況になりました。
 資金の貸し手である銀行も、そして当の水島社長ですら、正確な全体像を把握していなかったといわれています。各社ともに独立法人であったために、人的交流もなく、数字の基準もバラバラな状態が放置されていました。恐ろしい規模のどんぶり勘定が許されてしまっていたのです。

 
 水島廣雄社長(当時)は、「企業担保法」の論文で法学博士号を取得し、日本興業銀行からそごうに天下ったというユニークな経歴をもつ人物である。
 だが、私見では、「客観的意義における企業」(譲渡担保を巡るエトセトラ(5))を神格化するかのような彼の発想に、既に崩壊の芽があったと思う。
 彼の名言「私が担保だ!」は、譲渡担保権者と同じ思考を基盤に持つものであり、これだけでも、信用が成り立っていないことは明白だったのである。
 ところで、現時点において、こうした「信用の不成立」という問題が解決されたわけではない。
 今度の買い手(の中核企業)は、借金による買収でどんどん拡大してきたわけだが、今後仮に”借入金バブル”が崩壊したら、一体どうなるのだろうか?
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脱ぎたがる

2022年07月03日 06時30分01秒 | Weblog
プーチン氏「気色の悪い光景」 G7首脳の「上半身裸で」発言に
 「リゾート地などで、上半身裸で馬に乗る姿をしばしば見せるプーチン大統領だが、6月に冗談を言われたことについて、「上下どちらを脱ぎたかったかわからないが、いずれにしても気色の悪い光景になっただろう」と述べた。
 マッチョなイメージをジョークにされたプーチン大統領は、外遊先で車に乗り込む際、上着を脱ぐ様子をカメラの前で見せていた。


G7首脳の上半身裸など気持ちが悪い=プーチン氏
 「大統領は、19世紀のロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンを念頭に、「人は賢い人間のまま、自分の爪の美しさに気を配ることもできる」と述べ、「私はこれに賛成だ。1人の人間の中で、心も体も、すべてが調和のとれた形で発達するようにするべきだ。しかし、何もかもが見事に調和するためには、酒の飲みすぎなど悪い習慣をやめて、運動して、スポーツに励む必要がある」と説いた。
 「プーチン氏はさらに、ジョンソン首相が、もしプーチン氏が女性だったらウクライナを侵攻しなかったはずだと発言したことについて、これは「正しくない」と指摘。1982年のイギリスとアルゼンチンのフォークランド紛争で、「武力による敵対行為の開始を決めた」のは、当時のマーガレット・サッチャー英首相だったと述べた。

 プーシキンは、確かに決闘で死んだ勇ましい人物だけれど、民間人をミサイルで攻撃するようなことはさすがに容認しなかっただろう。
 それはともかく、プーチン大統領の場合、彼のマチスモが戦争の遠因になっているといわれても仕方がないような気がする。
 「脱ぎたがる」点について言えば、彼がスーツを脱いだら軍服があらわれたかのような印象である。
 同じ「脱ぐ」にしても、岡口判事のように、ズボンを脱いだら白ブリーフがあらわれるといったような、平和的な脱ぎ方があったのではないだろうか?
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自演自賛

2022年07月02日 06時30分21秒 | Weblog
アレクサンドル・カントロフ
 「“カントロフはリストの生まれ変わりだ。私は、彼のように楽器を操り、これらの作品を奏でるピアニストを他に知らない”
 Jerry Dubins(『ファンファーレ』誌


 アンコールの一曲目「グルック(ズガンバーティ編):精霊の踊り」が終わると、「NICE!」という声が聞こえた。
 演奏していたカントロフが発したもので、いわば「自演自賛」である。
 それほど素晴らしいパフォーマンスだった。
 ただ、弾く方はもちろん、聴く方も非常に消耗する曲目の選択である。
 シューマンのピアノ・ソナタ第1番 嬰へ短調 op.11を除けば、「死」と「冥界」がテーマなのだから。
(「精霊の踊り」もそうである。)
 ちなみに、スクリャービンは、「善なる一者との合一」を理想としていたそうだが、この種の思想がロシアで受け入れられるのには、おそらく何らかの理由がありそうである。
 とはいえ、こうした不気味でどろどろとした世界を、若い天才ピアニストは、テクニックと力技で見事に浄化してくれたようだ。
 それにしても、ガルシア・ガルシアもそうだが、最近、鼻歌まじりに演奏する若手ピアニストが増えているような気がする。
 
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