Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

小劇場

2022年07月09日 06時30分16秒 | Weblog
 新国立劇場・小劇場のM. バタフライは、日本では32年ぶりの上演ということだが、連日ほぼ満員の盛況である。
 とはいえ、目の肥えた観客の中には、辛辣な批評をする人もいる。
(以下ネタバレご注意!)

『Mバタフライ」感想というより・・」
 「とても楽しみにしていた舞台だけにこうした改竄に近い解釈を見せられると心が痛みます
観劇前から思い入れが強すぎた‥と自分でも思う。
しかし昨日のMバタフライからは西洋的マチズモやレイプメンタリティへの問題提起もあまり感じられなかった


 だが、私見では、「西洋的マチズモ」や「レイプメンタリティ」といったテーマなど吹き飛ばしてしまうような、もっと重要なテーマがあらわになっていたと思う(ちなみに、作者自身が自作を誤解するのはときどきある現象なので、「自作解題」を鵜呑みにするのは危険である。)。
 二幕の後半のセリフは、私には、殆どプラトンとニーチェの討論のように響いたからである。
 一幕で、ガリマールは、東洋の着物を着て顔にドーランを塗ったソンに、”完璧な女性”、”犠牲に徹する東洋の女性”の理想像を重ね合わせ、一目惚れする。
 二幕で、ソンが実は男であることが暴かれると、ガリマールは、「現実」を否定して「幻想」の中に生きることを決意し、ついに自ら「蝶々夫人」となり、自死を遂げる。
 ニーチェ先生に代わって解説すると、一幕で現れたソンは「仮象」であるが、それにもかかわらずこれを(永遠不変の)「イデア」に仕立て上げてしまったところに、ガリマールの致命的な過ちがあったということになるだろう。
 つまり、「仮象」と「イデア」の取り違えである。
 現実(事物の「内面」・「真理」=ソンの裸)は決して見てはならず、「表面」(仮象=着物とドーラン)に踏みとどまらなければならないというのが、「悦ばしき知識」の序言だった(不朽の言葉(2))。
 ニーチェ先生によれば、「仮象」は常に生成流転しており、個々のものから独立した・不変の「イデア」などというものは存在しないのである。
 ・・・二幕では、思い切って、ガリマール=プラトン、ソン=ニーチェという設定でセリフを改めれば、もっとよい戯曲になると思うのは、私だけだろうか?
 
 
 
 
コメント
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