Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

音画と音動画・音舞

2024年04月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「ラモーもラヴェルも、ラフマニノフにしても、鍵盤とオーケストラいずれかの版がトランスクリプションというのではなく、併存する原イメージとして構想されていたと考えられるからだ。
 とすれば、ピアノにはたんに多彩な楽器を模倣するのではなく、ピアニスティックな想像力で作品像を具現化することが求められる。ラフマニノフの曲題にとどまらず、〝シンフォニック・ダンセズ〟というのが、ピアノによるオーケストラ音楽を集めた本プログラムに交響するテーマだ。バルナタンはこれを鮮やかに叶えるべく、抜群の運動神経と鋭敏な知性を存分に揮った。
ラモー:「新クラヴサン組曲集」より 組曲ト長調 RCT6
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ストラヴィンスキー(G・アゴスティ編):バレエ音楽「火の鳥」より
 魔王カスチェイの凶悪な踊り
 子守歌
 終曲
ラフマニノフ(バルナタン編):交響的舞曲Op.45

 一見すると「盛り合わせ音楽会」(盛り合わせや否や?)のようにも思えるが、そうではない。
 青澤隆明さんも指摘するとおり、共通のテーマがあるからだ。
 それは、「音によるダンス」である。
 このことは、バルタナンの”跳ねる”ような演奏スタイルを見ればすぐ分かる。
 もっとも、ダンスは、人間のダンスとは限らない。
 ラモーの《新クラヴサン組曲集》より組曲ト長調の「雌鶏」を聴いて、私には遠い中学生時代の記憶が蘇った。
 当時、私は2羽のロードアイランドレッドの雌鶏を飼育していた。
 毎朝川でクレッソンを収穫し、これを包丁で切り刻んで米ぬかや残飯類とまぜたものを彼女たちに提供する代わりに、彼女たちが産んだ卵をごはんにかけて食べる毎日を繰り返していたのである。
 雌鶏が首を細かく動かしながら神経質そうに歩く様子は、おそらく多くの人が見ていると思うが、私はこれを四六時中見ていた。
 なので、雌鶏の動きは私の記憶の深いところに沈着していたのだが、ラモーの音楽は、私の脳の内奥を刺激したのである。
 ところで、こうした音楽による情景の描写は、音楽史では「音画」(的表現)と呼ばれてきたようだ(ドイツリートにおける「音画」って?)。
 交響曲だとヴェートーベンの「田園」の嵐などが挙げられるし、ピアノ曲だとムソルグスキーの「展覧会の絵」は「音画」の典型だろう。
 だが、考えてみると、「音」は、「静止画」を表現するのには適していない。
 「沈黙」なら静止状態を表現できるかもしれないが、「音」はそもそも空気の振動だからである。
 なので、これを耳で受け止めた人間は、「動き」をアウトプットしてしまうのではないだろうか?
 というわけで、私は、「音画」ではなく、「音動画」あるいは「音舞」という表現の方が良いように思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四大内定によるカウベル効果とミスマッチの問題

2024年04月19日 06時30分00秒 | Weblog
(裁判官の採用について)
岡口氏 「・・・で、いきなり実務でしょ、ときどき教官が来るくらいだから。あれで人となり分かれって言っても無理で、今聞いた話だと、『四大の内定者から選んでる』とかいういう話があります・・・」(21:43付近~)
三輪氏「・・・四大とか五大とか言われる事務所がもう超巨大化していて・・・大企業を顧客にいっぱい抱えていて・・・大企業をかなり多くの弁護士が、大企業の代弁者みたいになっているんじゃないかって、私は懸念していて・・・」(22:30付近~)
岡口氏「・・・四大の内定者から選んじゃうと、どうしてもね、目指してきたものが違うのでね、・・・ミスマッチがありますよね」(25:40付近~)
 「・・・中学生の夢は、『四大に入ること』なんですよ・・・」(27:40付近)

 裁判官のリクルーティングに関する衝撃的な話である。
 現在の司法修習システムだと、司法研修所での集合研修の期間が短く、最初から実務修習で全国各地に配属され、(裁判官である)教官はときどき出張で来るくらいなのだそうだ。
 これだと、修習生の人となりなど分かるはずがなく、裁判官のリクルーティングは難しい。
 そこで、裁判所は、四大事務所の内定者(「サマー・クラーク」などで、司法試験を受ける前から能力や人となりを吟味されている:ロースクールにおける人格蹂躙とクソな競争)をターゲットとして、採用活動を行っているようなのだ。
 これを私は、「四大内定によるカウベル効果」と名付けたい。

 「カウベル効果は呼び水効果と言い換えられることもあり、新聞記事や政府の公開資料・政府系金融機関のパンフレットの中によく登場する用語です。カウベル効果を世界で最初に命名した日向野幹也氏のブログによれば、カウベル効果は「金融市場でよく見られる模倣現象のこと」で、同氏の書籍「金融機関の審査能力」(東京大学出版会刊)にて、「貸手Aの融資行動自体がAの行なった審査の結果を顕示(reveal)してしまうので、これに追随するBやCは、ある条件のもとで情報の外部性を利してAの審査能力にいわば便乗する機会を得ること。これをカウベル効果と呼ぶ。」と定義されています。

 「カウベル効果」というのは、うんと分かりやすく言うと、ある製造業者の工場建設資金を、審査能力に優れた日本政策投資銀行(ドラマ「半沢直樹2」にも「開発投資銀行」の名前で出て来る政府系金融機関であり、竹中平蔵氏の古巣でもある)が融資した場合、「サクギンのお墨付きがあるくらい良い企業なんだから、うちも融資しよう!」という風に、他の金融機関が「右に倣え」をする現象を指す。
 これと似た現象が、裁判官のリクルーティングでも起きており、「四大内定」という能力のお墨付きを得た修習生は、「カウベル効果」によって裁判所からの信用も得るわけである。
 だが、岡口・三輪両氏が指摘するとおり、ここには大きな落とし罠がある。
 最大の問題は、「目指してきたものが違う」こと、つまりミスマッチである。
 そもそも、司法の最大の目的が「少数者の権利保護」であることは法学部で必ず習うことであり、木庭顕先生によれば、「法曹」は、「『最後の一人』を守る専門家ないし職業」と定義される。
 私見では、裁判官に最も求められる資質は、「最後の一人」を守るという基本姿勢・気概だと思う。
 ところが、現在のリクルーティング方法だと、そのような人材を取り損ね、逆にそうでない人材を集めてしまうことになりかねない。
 若手裁判官の離職率の高さは、このミスマッチに基因している可能性も考えられる。
 これ以外の問題として、やや些末となるが、四大側の抵抗がかなり強力で、裁判所が負けるケースもあるのではないかという点が挙げられる。
 私の同期でも、検察に引っこ抜かれそうになった内定者を何度も呼び出して、あの手この手で翻意を促した事務所があった(「ふつう」のこと)。
 母集団が「四大内定者」で、その中でのパイの取り合いになるとすれば、裁判所側は数の確保が難しいのではないだろうか?
 いずれにせよ、現在のやり方では早晩行き詰りそうである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カスハラと揉み手営業(2)

2024年04月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「令和4年の新受刑者のうち、精神障害(知的障害を含む。)を有すると診断された者は、2,435名(新受刑者総数の約17%)であり、うち、入所回数が2回以上の者は、66.9%に上っており、診断のない者のその割合(54.5%)と比較すると、再入所者の占める割合が高い状況となっています。本人が自身の精神障害や保健医療・福祉サービスを十分に理解していないなどの理由により、自ら各種支援を拒否する場合も少なくありません。」 

 「日本の刑務所の場合、受刑者となった者は、まず知能指数のテストを受けなくてはならない。法務省発行の「矯正統計年報」によれば、2012年の数字で例示すると、新受刑者総数2万4780人のうち5214人、全体の21%が知能指数69以下の受刑者ということになる。測定不能者も839人おり、これを加えると、実に全体の約4分の1の受刑者が、知的障害者として認定されるレベルの人たちなのだ・・・
 ここで誤解のないように記しておくが、知的障害者がその特質として罪を犯しやすいのかというと、決してそうではない。それどころか、ほとんどの知的障害者は、規則や習慣に従順であり、他人との争いごとを好まないのが彼ら彼女らの特徴だ。
 ただ、善悪の判断が定かでないため、たまに社会のルールを逸脱するような行動をとってしまうことがある。そして、その自覚がないだけに、検挙されても自分を守る言葉を口述できない。また、反省の意味も、なかなか理解できない。したがって、司法の場での心証は至って悪く、それが情状酌量に対する逆インセンティブになっているのではないか。その結果、何回も何回も服役生活を繰り返す 

 弁護士の場合、依頼者との契約は委任であり、基本的に対等な関係であることが前提されているし、”辞任の自由”もあるため、カスハラ的状況が生じそうな場合には、辞任によってこれを回避することが出来る。
 裏を返すと、カスハラ的状況が生じるのは、”辞任の自由”が利かない場合、典型的には、国選事件や、何らかの事情で辞任出来ない場合である。
 ちなみに、「フロント企業の関連会社の事件を、自分の事務所の勤務弁護士ではなく、あえて「ノキ弁」に配点するボス弁がいる」と聞いたことがある。
 こうした事件でも、仕事が少ない若手弁護士だと、断れないケースもあるだろう。
 私見では、刑事事件でのトラブルの中には、ハラスメントに近い状況が生じている可能性があると思う。
 十年以上前、国選弁護を多く手掛ける先輩弁護士から、「地方の某弁護士会では、弁護士急増に教育体制が追い付かず、国選弁護人に選任されたものの依頼者との間でトラブルになって、メンタルを病んで辞めていく新人が続出している」という話を聞いたことがあった。
 要するに、依頼者とのコミュニケーションがうまく行かず、トラブルに発展するケースが続出したらしい。
 あくまで推測だが、この背景には、国選事件で比較的多くみられる精神障がい(知的障がいを含む)の問題があるのではないかと思う。
 そもそも会話が成り立たないような事案は別として、若手弁護士が対応に悩む問題として多いのは、「頻繁な接見要請」、「過大な要求」といったところではないかと思う。
 例えば、午前中、結構な時間をかけて接見したのに、昼過ぎに警察から「先生に接見要請が出ています」という電話がかかってくるケースもある。
 しかも、これに即日対応せず、翌日以降接見に行くと、「なんですぐ来なかったんだ!」などと非難されることになる。
 これは、依頼者が拘禁ノイローゼに陥っている可能性も考えられるが、精神障がい・知的障がいの一部にみられる「自分に構って欲しい」という欲求、つまり他者への過剰な依存から来る言動と見るべきケースが多い。
 なので、これをいちいち真に受けていると身が持たないし、かといって依頼者に冷たく接すると、コミュニケーションが難しくなってしまう。
 その結果、弁護士がメンタルを病んでしまうことにもなりかねない。
 やはり、依頼者との間では適度の距離を保って、過剰に依存するような状況を誘発しない(なので、「揉み手」のような姿勢は見せない)姿勢が必要なのだが、これがとりわけ社会人経験のない新人弁護士には難しいのだろう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カスハラと揉み手営業(1)

2024年04月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「東京都は、客が行う迷惑行為や悪質なクレームなどのカスタマーハラスメント、いわゆる「カスハラ」を防ぐ全国で初めての条例の制定に向けて、早期の条例案の提出を目指すことにしています。

 アメリカの大学院に留学していた頃、行政学の授業で、テキストに
 "keep your boss satisfied"
というフレーズが出て来て、ちょっと考え込んでしまったことがある。
 これが "keep a customer satisfied"をもじったものであることは言うまでもないが、このフレーズで私は、サラリーマン時代、関西地方のある店舗で働いていた頃の経験を思い出したのである。
 それは、私が勤めていた会社のことではなく、同じ営業エリアの某メガバンクの店舗に配属された、一橋大出身のエリート新人が犯したある”失敗”のことである。
 彼は、ある大口取引先(私もこの会社の担当)の社長さんとの最初の面談の際、手形取引について、
 「手形の受け渡しは、必ず店舗にお越し頂いて行います。手形の現物を私が御社に来てお預かりする、あるいは御社にお持ちすることは致しません。
という趣旨のことを述べたそうである。
 おそらく、これは行内規程どおりの取り扱いであり、研修などでもこのように説明するよう指導されたのだと思う。
 だが、この社長さんは、彼の言葉に激高し、上席(たぶん支店長)に対して、以下のようなクレームを入れたようである。
 「歴代の担当者は、全員いつもうちの会社まで来て手形の受け渡しをしていたのに、それを拒否するとは、今度の新人はとんでもない奴だ。一橋大の出身だかどうか知らないが、うちにはこういう担当者は要らない。
 (ここで少しコメントしておくと、私の知る限り、中小企業の経営者の中には、いわゆる”高学歴者”に反感を持っている人が結構いるし、関西地方の場合、関東の名門大学出身というだけでアレルギー反応を示す人も少なくない。
 なので、社長さんからこの話を聞いた私は、「この新人君、可哀想に、社会人になって早々、手痛い”失敗”をしてしまったな!」という感を抱き、他の会社のことではあるが心配になったのである。)
 これを受けて、支店長がどのような対応をしたかは不明である。
 だが、私は、この新人君に全く罪はなく、むしろ歴代の担当者に問題があったと確信した。
 "keep a customer satisfied"は結構なことだが、そのために、規程を無視してまで”特別扱い”をしてしまったところに根本的な問題があったのである。
 もちろん、この背景に、苛烈な営業ノルマがあることは言うまでもない。
 ノルマ達成という至上命題のために、行内規程を守ることよりも、大口取引先の”機嫌を損ねる”ことなく、営業成績を挙げることの方が優先されたのである。
 結局のところ、「揉み手営業すべからず」というのが正しいのだろう。
 「揉み手営業」は、カスハラを生み出したり助長したりする恐れがあるのだから。
 これは、自分が属する組織内の関係についても当てはまるはずであり、
 "keep your boss satisfied
を余り強調し過ぎると、同様の過ちに陥る恐れがあるだろう。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

殺し文句としての「大谷翔平」

2024年04月16日 06時30分00秒 | Weblog
 「50年以上、世界のピアニストを聴き、探し続けてきた。凄い才能だ!とか、怪物だ!とか思ったことは何度もあったけれど、中瀬智哉は全く違っている。
 勝沼酒造の勝沼甲州を初めて飲んだ時の感動が蘇る。「ヤバイ!ああ、参りました。」・・・
 凄いのは、それがヨーロッパのスタイルの上にあることなのだ。
 「演奏を聴いた瞬間、彼はあなたの「推し」になる!

 武蔵野文化生涯学習事業団文化事業部のチラシは、いつも個性的である(例えば、【炸裂!】武蔵野文化会館のチラシ(フライヤー)が独特すぎる)。
 文字がびっしり書き込まれた、一見すると白黒のなんてことはない紙切れだが、言葉の力が凄まじい。
 「クラシック界の大谷翔平登場」という一言だけでチケットを買ってしまう人が続出したのだろう、会場はほぼ満席である(上に引用したくだりは、期せずして「勝沼甲州」の宣伝にもなっている。)。
 会社でも、「彼は我が社の『大谷翔平』だ」という噂が出ようものなら、全社員が彼を見に行くのではないだろうか?
 開演前、近くの席から、
 「ちょうど誰にも知られていないころの藤田真央ちゃんがこんな感じだったの
というマダムの言葉が耳に入って来た。
 なるほど、藤田さんもここが実質デビューの場所だったのだろう。
 登場した中瀬さんは、大谷翔平というよりは、まるで皇室の方のような「育ちの良さオーラ」を全身から発しており、笑顔を絶やさず、丁寧な言葉遣い&上品な身のこなしの好青年である。
 だが、演奏ぶりは力強く、私見では、「日本で一番気持ちよさそうに弾くピアニスト」:川口成彦さんと並ぶ、「気持ちよさそうに弾くピアニスト」のカテゴリーに入りそうである。
 さて、このコンサートのチラシは2月ころ作成されたもので、当然、”例の事件”はまだ発覚していない。
 ”例の事件”の後では、「〇〇界の『大谷翔平』」という売り言葉は少々使いづらいと思うので、次のリサイタルでどのようなキャッチコピーが使われるのか、注目したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犠牲死と復活

2024年04月15日 06時30分00秒 | Weblog
 「2024年の東京・春・音楽祭で注目される演目の一つに、ブルックナーの《ミサ曲第3番ヘ短調》(WAB 28)がある。今年で生誕200年を迎えた作曲家アントン・ブルックナー(1824~1896)は、今日では交響曲の作曲家としてよく知られているが、彼が交響曲に身を捧げるようになったのは40歳を過ぎた後半生のことである。前半生はオルガン奏者として活躍し、作曲家として宗教音楽を多く手掛けており、《ミサ曲第3番》はその集大成とも位置付けられる作品だ。
 ・・・最終楽章〈アニュス・デイ〉は「神の子羊」の意で、平和の賛歌だ。暗鬱としたヘ短調で始まるが、後半部ではキリエやグローリアの旋律が回帰し、へ長調で平安のうちに曲を締めくくる。

 ブルックナー生誕200年ということで、彼の「ミサ曲第3番」が上演された。
 もっとも、非キリスト教徒にとって、「ミサ曲」の内容を理解するのは容易ではない。
 「キリエ」(主よ憐れみたまえ)という許しを請うかのような文言で始まり、「アニュス・デイ」(神の子羊)で終わるという流れは、やはりテクスト外の問題を考慮しなければ理解出来ないだろう。
 ここは、「アニュス・デイ」から入るのが素人にとっては分かりやすいと思う。

  「その翌日、彼(注:バプテスマのヨハネ)はイエスが自分の方へ来るのを目にして言う、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」」(p7)
 「子羊と罪の除去については、イザ五十三6-7、エレ二-19、Ⅰペト一19、黙五6-12参照」(p6)

 「罪」、「子羊」は、旧約聖書に由来するもので、当時のユダヤ社会において、罪を贖うため子羊を犠牲として神に捧げていたことを踏まえたものである。
 ここで前提となっているのは、私が勝手に「モース=ユベール・モデル」と名付けた死生観と思われる(命と壺(5))。
 ということは、
① 「罪」によって、ある主体:Xの命が失われるという出来事が起こった。つまり、Xの命が媒介物から分離された。
② Xの命を聖界から俗界に呼び戻すための媒介物=「乗り物」として、子羊=イエスの身体が捧げられた。そして、この「犠牲死」の供犠は、Xによって嘉納された。
③ のみならず、イエスの命はXの命と同様、「霊の命」と合一化した上で、媒介物=イエスの身体に宿るという形で俗界に(再)降臨した。
という過程が成り立ちそうである(あくまで推測)。
 ここでのポイントは、③にある。
 すなわち、イエスの命は俗界と聖界を単純に行き来するのではなく、聖界で「霊の命」と合一化した上で、”復活”するというところである。
 これは、言うまでもなく、パウロの独創的な思考(<第二の生命>中心主義)に基づくものであり、当時のユダヤ教的な思考であれば、「罪を子羊によって浄めたらひとまず終了」(①②だけで③はない)という結末になっていたと思われる。
 以上に対して、「キリエ」については、フロイト先生の説明がいちばんしっくり来るように思う。

 「・・・感嘆と畏怖のまとであった父親の殺害へとかつて息子たちを駆り立てた敵愾心が時がたつにつれて動き出すのは起こりうることであった。モーセ教の枠のなかでは殺意のこもった父親憎悪が間接的に顕在化する余地はなかった。おもてに現れたのはこの憎悪に対する強烈な反応だけであった。このような敵愾心ゆえに生じる罪の意識、神に対して罪を犯してしまったのに罪を犯すのをやめることができない、という良心のやましさがおもてに現れたのである。
 「これから先の展開はユダヤ教固有のものを越えて進む。原父の悲劇から回帰してきたその他の事柄は、もはやいかなる仕方においてもモーセ教とだけ結びつくものではなくなっていた。・・・この重苦しい暗い状況の由来の解明はユダヤ教固有のものに基づいていた。至るところでこの由来の解明への接近と心構えが示されたのだが、この事態への洞察がはじめて顕現してきた精神の持ち主は、やはりひとりのユダヤ人の男であった。すなわちタルスス出身のサウロ、ローマ市民としてパウロと名のっていた男であった。われわれは父なる神を殺害してしまったがゆえにかくも不幸なのだ、という洞察。そして、パウロという男が、この真理の一片を、罪を贖うべくわれわれの中のひとりの男がその命を犠牲として供したゆえわれわれはあらゆる罪から救済された、という妄想めいた福音という偽装されたかたちでしか理解できなかったのは大変よくわかる話だ。」(p223~226)

 フロイト先生の解釈は次のとおり:
 ユダヤの民をエジプトから解放したモーセは、実はエジプト人であり、先進的な宗教(モーセ教)をユダヤの民に強制したために反発を買って打ち殺された。
 その後、ヤハウェ崇拝がこれにとって代わったが、ユダヤ人たちは「原父の殺害」という原罪意識に苛まれ続けた。
 ところが、同胞のうちの一人=イエスが”子羊”となって犠牲死を遂げることとなり、ここに至ってようやく自身らは「罪」から解放された、とパウロが後に解釈することとなった。
 
 でも、「復活」というところはフロイト先生の説ではうまく説明出来ない。
 なので、モース先生らの助けを借りる必要があると思うのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

換骨奪胎と借用

2024年04月14日 06時30分00秒 | Weblog
男性版『白鳥の湖』の熱狂から5年。
全英を虜にした鬼才マシュー・ボーンの野心作、ついに日本初上演!

 2020年に予定されていた「赤い靴」の来日公演がコロナで中止となったため、今回は2019年の「白鳥の湖」以来5年ぶりの公演となる。
 マシュー・ボーンのバレエはどの作品もそうだが、本作も原作が換骨奪胎され、およそ異なる設定・ストーリーとなっている。
 時は近未来、場所は「ヴェローナ・インスティテュート」という、反抗的な若者を収容する矯正施設である。
 「王室」(「白鳥の湖」)、「孤児院」(「くるみ割り人形」)と同様、「閉鎖的・抑圧的な空間」という設定が採用されている。
 マシューはダンサーたちに、「「カッコーの巣の上で」を見ろ」と指示したそうなので、これは「借用」といって良い。
 彼の一大テーマは「抑圧からの解放」であり、その手段の一つがダンスなのである。
 「抑圧」を体現する「支配する大人たち」としては、我が子を見捨てるロミオの父(上院議員)と母、施設の看守でジュリエットに性的虐待を行うティボルトなどがいる。
 ここでは、「虐待」という、原作には見られなかった現代社会の大きな問題が取り込まれている。
 そこに、原作でも核心を成していた”ボーイ・ミーツ・ガール”ストーリーを組み込んだのが、「ロミオ+ジュリエット」である。
 但し、マシュー版では、それなりに精神的に成熟したジュリエットは、ピュア(つまり精神的に未熟)なロミオのそのピュアさに惹かれるという仕立てのようであり、ここには若干問題があるかもしれない。
 というのは、「若い女性は、同年代の男性より精神的に成熟しており、分別が備わっている」という思考は、一種のジェンダー・バイアスと言いうるからである。
 それはともかく、ラストは衝撃的で、原作とは全く異なるのだが、これはネタバレになるので、さすがに書けないところである。
 ちなみに、音楽はオーソドックスにプロコフィエフを採用しているが、実はひねりを利かせてある。
 というのは、マシューによれば、「音楽は、プロコフィエフのオリジナルのオーケストレーションを簡略化したものではなく、このプロダクションのために特別に考案された新しい編曲です」ということで、室内楽版に近い。
 これが可能なのは、プロコフィエフの孫ら(英国で財団を運営)がマシューの「シンデレラ」の大ファンであり、原曲の編曲を許可してくれたからであった。
 クラシックの曲でも権利関係は結構大変なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホールとサロン(5)

2024年04月13日 06時30分00秒 | Weblog
指揮:ピエール・ジョルジョ・モランディ
ロドルフォ(テノール):ステファン・ポップ
ミミ(ソプラノ):セレーネ・ザネッティ
マルチェッロ(バリトン):マルコ・カリア
ムゼッタ(ソプラノ):マリアム・バッティステッリ
ショナール(バリトン):リヴュー・ホレンダー
コッリーネ(バス): ボグダン・タロシュ
べノア(バス・バリトン):畠山 茂
アルチンドロ(バリトン):イオアン・ホレンダー
パルピニョール(テノール):安保克則

 毎回声量豊かな歌手が勢ぞろいする「プッチーニ・シリーズ」だが、今年もロドルフォ役のステファン・ポップを筆頭に”パワー系”歌手が集まった。
 アルチンドロ役のイオアン・ホレンダー(ウィーン国立歌劇場元総裁)以外は全員暗譜で、ヤノフスキからお叱りを受けそうな状況である。
 私は、ステファン・ポップは初見だったのだが、彼の放つオーラが凄まじく、”ステファン祭り”と化したのは必然だったのだろうか?
 こういうタイプの歌手には、やはり大きなホールが似合うようである

J.S.バッハ(鈴木大介編):
 リュート組曲 第2番 ロ短調 BWV997(原曲:ハ短調)
 組曲 変ロ長調 BWV1010(原曲:無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調)
 組曲 ト短調 BWV1011(原曲:無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 & リュート組曲 第3番 ト短調)
 組曲 ニ長調 BWV1012(原曲:無伴奏チェロ組曲 第6番 ニ長調 )

 こちらは東京国立博物館の平成館ラウンジが会場で、ショパンが好んだ「サロン」に近いといって良い。
 鈴木さんのクラシックギター(ヤマハGC82)の響きは繊細で、こうしたサロン的な会場がフィットする(というか、ホールは無理だろう)。
 アンコールの2曲目は、第一夜と同じく「G線上のアリア」だったが、第一夜とはアレンジが異なるように聴こえた。
 優しく語りかけるような楽器の響きが曲調にも合って快い。

 「ワーグナーは、この曲を、愛妻コジマの誕生日のプレゼントにしようとして作曲し、ひそかに楽員たちに練習させた。
 そして、誕生日の12月25日の朝、コジマの寝室に通じるらせん状の階段に勢ぞろいした楽員たちに、まだ寝ている彼女のためにこの曲を演奏させたのである。
 美しい音楽の調べに驚いて目を覚ました彼女は、思いがけない贈り物に涙を流して喜んだという。
 曲は、全体に牧歌的な気分にみちあふれていて、聴いていると、長男を得たワーグナーの喜びと、コジマへの感謝の気持ちが痛いほど伝わってくる。

 クラシックの名曲は、ホールやサロンで演奏されるために作られた曲が殆どだが、そうでない曲もある。
 妻(コジマ)という一人の人間のために、家で演奏することを想定して作られたのが、「ジークフリート牧歌」である。
 グールドのピアノ編曲版を聴くと、ラストの4~5分間は殆どささやきのように聴こえる。
 そもそも第三者に聴かせることなど想定されていないのである。

3.サイレント・イヴ~「クリスマス・イヴ」より

 私は本は「濫読主義」で、音楽も「濫聴主義」なので、たくさんのCDを聴くのだが、その中で驚いたのが、ピアノ編曲版「サイレント・イヴ」の演奏である。
 弾いているのは扇谷研人さんという方なのだが、弾き方が「ささやく」ようで、はなっから演奏会で弾くことなど考えていないところにビックリしたのである。
 これに近い演奏をするピアニストとしては、アンドレ・ギャニオン以外は見当たらないと思う。
 こういう、「ホールでもサロンでも聴けない音楽」も大切にしたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッハ発、ワーグナー行き(8)

2024年04月12日 06時30分00秒 | Weblog
指揮:マレク・ヤノフスキ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ

 春祭常連指揮者であるM.ヤノフスキは、R.ムーティ―らと並んで「怖~い」指導で有名らしく、特にヤノフスキは、「譜面を見て歌うことを望む。正確に歌わせたいからだ。演出や映像は無用。音楽が全てを語っているとの強い信念だ!」(日本ワーグナー協会季報「リング」175)という”音楽原理主義者”。
 この考え方だと演出家や舞台や衣装のデザイナーさん、照明さんなどの存在意義は無くなってしまう。
 もっとも、歌手の皆さんは指揮者に必ずしも忠実ではなく、スチュアート・スケルトン(トリスタン役)とフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(マルケ王役)は譜面を使わず、マルクス・アイヒェ(クルヴェナール役)もときどき譜面を見る程度だった。
 つまり、半ば”学級崩壊”したクラスと化していた。
 むしろムーティー(歌手を中央に集めて移動させず、自分の指揮を見るよう指導しているのか?)の方が、厳しい先生のように思える。
 さて、ワーグナーは、この作品によって、「17世紀以来の西洋音楽の機能和声(和音の根音と各調性の主音との関係には規則的な役割と機能があるなどとする考え方)が崩壊していく〝呼び水〟のような役割を果たした」といわれたらしい(連載《トリスタンとイゾルデ》講座~《トリスタンとイゾルデ》をもっと楽しむために vol.1)。
 そうすると、ワーグナーは「トリスタン」によってバッハ以降の伝統をぶち壊してしまったのかと思いきや、必ずしもそうではないようだ。
 その理由は、各幕全体に亘って使用されている「無限旋律」にある。
 
 「特に<無限旋律>がバッハの音楽に負うところの大きいのは、注目すべきである。<平均律曲集>第一集の、<変ホ短調プレリュード>を演奏したのちワーグナーは、「これが私に私の筆法をあたえたのだ」と言った。「いかに多くの音楽作品が、私のそばを何の印象もあたえずに過ぎ去ったか、ほとんど信じがたいほどだ。しかしこれこそは、私を決定した。これは無限である。そしてこのようなものを、誰も二度と作らなかった!」この<プレリュード>の中にこそ、無限旋律は予示 praformiert されており、ここでは旋律の連続性付与に成功している、とワーグナーは考えた。」(p67)

 というわけで、「「無限旋律」はバッハの手法を継承・発展させたものである」というのがワーグナーの主張である。

舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』より
序夜《ラインの黄金》より第4場「城へと歩む橋は……」〜 フィナーレ
    ヴォータン:マルクス・アイヒェ(バリトン)
  フロー:岸浪愛学(テノール)
  ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
  フリッカ:杉山由紀(メゾ・ソプラノ)
  ヴォークリンデ:冨平安希子(ソプラノ)
  ヴェルグンデ:秋本悠希(メソ・ソプラノ)
  フロースヒルデ:金子美香(メゾ・ソプラノ)

 今年はヤノフスキ氏の指揮を2回見ることになったが、今度は歌手は一応みな「譜面を見て歌う」スタイルを守っていた。
 「指環」にも「無限旋律」が随所に登場し、「ジークフリートのラインへの旅(楽劇「神々のたそがれ」から)」はその代表格らしい。
 では、「「無限旋律」はバッハの手法を継承・発展させたものである」というのがワーグナーの主張は正しいのだろうか?
 これはやはり、「バッハの生まれ変わり」とも言うべきグールドに判定してもらうのがよいと思う。
 結論は、”YES” と思われる。
 というのは、グールドは、「楽劇『神々の黄昏』~夜明けとジークフリートのラインへの旅 」を編曲・演奏してレコード化しているからである(ワーグナー/グールド編:ピアノ・トランスクリプションズ )。
 結論:「ワーグナーは、「機能和声」崩壊の契機をつくったものの、他方で、バッハの「平均律」から「無限旋律」を継承・発展させた。したがって、彼もショパンと並んで「バッハの息子」と呼んでよい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッハ発、ワーグナー行き(7)

2024年04月11日 06時30分00秒 | Weblog
ワーグナー(クリンドヴォルト編):ジークフリートの葬送行進曲
 
 「・・・そうした世界観やそれにふさわしい楽曲のあり⽅を、ベートーヴェンも《第九》をはじ めとする諸作品に積極的に採り⼊れていく。となると、その崇拝者であり後継者であるこ とを強烈に⾃認していたワーグナー⾃⾝が、ベートーヴェンの⾳楽世界を、⾃らの作品に 取り⼊れていったのは当然だろう。特に、畢⽣の⼤作である楽劇《ニーベルングの指環》 の最後を飾る《神々の⻩昏》(作曲は 1869 年から 74 年にかけてだが、作品そのものの草 案は 1848 年にまで遡る)では、その⼤詰めで英雄ジークフリートが死を迎える中、悲劇 的であると同時に輝かしさにも満ちた葬送⾏進曲が出現する。」(曲目解説より)

 ワーグナーは、幼い頃から「第九」の総譜を愛読しており、ベートーヴェンの「後継者」を自認していた。

(妻コジマの1879年9月2日の日記:
  「とつぜんリヒャルトは言う。『私に慰めをあたえる人は、はなはだ少なかった。ベートーヴェン、モーツァルト、バッハ、ウェーバーーーー私が独創的旋律家と呼ぶ人たちだ。』」(p65)

 言うまでもないが、ワーグナーの二番目の妻コジマはリストの娘であり、リストもベートーヴェンの崇拝者だった。
 ワーグナーの先輩音楽家に対する敬意に敢えて順番を付けるとすると、コジマが述べたとおり、ベートーヴェンが筆頭に来て、次にモーツァルト、その後にバッハという順になるのだろう。
 ベートーヴェンのイ短調四重奏曲を聴いた後に至っては、
 「人間はこのように非地上的なものを聞く資格があるかどうか、疑問にさえ思われる。」(前掲p63)
と感嘆していたらしい。
 モーツァルトからの影響がやはりオペラであり、バッハからの影響はおそらく形式の点にあると指摘されている。
 ワーグナーは、バッハの「平均律」を熱愛しており、ある晩、この曲が演奏された後、こう述べて「マイスタージンガー」の前奏曲を弾き始めたそうである。
 「では、これから応用されたバッハをやろう。」(前掲p67)
 確かに、この曲では対位法が駆使されていて、あのグールドも好んで弾いていたのである(Glenn Gould plays Die Meistersinger (excerpt))。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする