遠い未来、まだ人類が存在していて
この時代を歴史として振り返られるとしたら
いったいどんな評価になっているのだろうか
実際に経験している我々は、徐々に変化しているので
その変化の大きさは把握しにくいが、それでも
この10年の変化を眺めてみると、その急激さは驚くばかりだ
産業革命、フランス革命並みの
大きな時代のうねりのまっただ中にいた
と評価されるに違いない
それは残念ながら肯定的な面というよりむしろ
否定的な面としてとらえられないだろうか?
グローバリズムと自由の旗印の下
実は経済至上主義に支配され、
無目的に突っ走っている感じがしてならない
我が国では、小泉政治の負の遺産がここに来て表に現れつつあるというが
それは小泉さんでなくとも同じ様な結果になっていたのではないかと思う
(そのスピードは違っていたかもしれないが)
なぜなら多くの人のメンタリティーが経済の競争や
弱肉強食は仕方ないものだとして
その否定的な面を見ようとしないからだ
自由主義経済は共産主義経済よりも優れていると
無条件的に前提化されているが、
実はこの自由主義経済すらも共産主義と同様なくらい
上手くいかないシステムなのではないのか
(だからといってそれに代わるシステム、方法があるわけではないが)
最近若年層の奇妙な犯罪が多いが
それは社会のひずみが一番弱い部分に現れる実例ではないのか
罰則や法律を変えてみても、
それらを防ぐ力にはなり得ない気がしてならない
社会にひずみは存在している
勿論どんな時代にもそれは存在していたのだろうが
今程精神的ストレスの多いひずみは存在しただろうか
(戦時中を除いて)
若い人、弱い人たちは直感的にそのひずみの困難さを感じ取って
生物としての活力を失ってしまっているように思えてならない
世の中は競争に満ちていて、勝ち抜いていかなければならない
それは一つの真実だろう
特に心の持ち方としてはその通りであるように思えるが
しかし、実生活において、勝ち抜くために心の持ちよう、身体のリズム
と反する事をしなければならないとすると
それはかなり不自然な事のように思える
他の動物と比較して人間の武器は何かとか考えた時
特別強い力があるわけでもないし
早く走れるわけでもないし
空を飛べるわけでもない
だが現実に今のところ地球上の最上位の立っていられるのは
知恵とか言葉があって、感情が存在するからだ
しかしこの知恵の部分、感情の部分を上手く活用していない
競争社会に勝ち進んでいかなければならない
しかし、どんな方法でも勝てばいいのかと言うと
決してそうではない
このブレーキをかける部分、
おそらく感情に依存する部分の重要度が
現在ではあまりにも軽視されているのではないか
じっくり考えた事
なんとなく感覚的にそうだと思う事
いったいどちらが正しいかと考え場合
必ずしも理性に依存した方が良い結果が出るとは限らないだろう
第一、実生活では人はあまりにも感情に左右されている
理性と感情が喧嘩をすれば勝者はいつも感情であるのに
その暴れ者の感情は、社会生活では理性に仕切られてしまっている
ほどほどの理性と感情のバランス
そしてそのための訓練
人としての完成はここに至るように思えるが
世界の共通言語が「金」の傾きつつある現在
このような考えを持つ事自体が「甘い」事のようにさえ思えてきている
やはりこの時代
社会変化だけでなく気持ち、心の変化も劇的に以前のものとは
変ってしまったと
後世の歴史書には書かれるのだろう
この時代を歴史として振り返られるとしたら
いったいどんな評価になっているのだろうか
実際に経験している我々は、徐々に変化しているので
その変化の大きさは把握しにくいが、それでも
この10年の変化を眺めてみると、その急激さは驚くばかりだ
産業革命、フランス革命並みの
大きな時代のうねりのまっただ中にいた
と評価されるに違いない
それは残念ながら肯定的な面というよりむしろ
否定的な面としてとらえられないだろうか?
グローバリズムと自由の旗印の下
実は経済至上主義に支配され、
無目的に突っ走っている感じがしてならない
我が国では、小泉政治の負の遺産がここに来て表に現れつつあるというが
それは小泉さんでなくとも同じ様な結果になっていたのではないかと思う
(そのスピードは違っていたかもしれないが)
なぜなら多くの人のメンタリティーが経済の競争や
弱肉強食は仕方ないものだとして
その否定的な面を見ようとしないからだ
自由主義経済は共産主義経済よりも優れていると
無条件的に前提化されているが、
実はこの自由主義経済すらも共産主義と同様なくらい
上手くいかないシステムなのではないのか
(だからといってそれに代わるシステム、方法があるわけではないが)
最近若年層の奇妙な犯罪が多いが
それは社会のひずみが一番弱い部分に現れる実例ではないのか
罰則や法律を変えてみても、
それらを防ぐ力にはなり得ない気がしてならない
社会にひずみは存在している
勿論どんな時代にもそれは存在していたのだろうが
今程精神的ストレスの多いひずみは存在しただろうか
(戦時中を除いて)
若い人、弱い人たちは直感的にそのひずみの困難さを感じ取って
生物としての活力を失ってしまっているように思えてならない
世の中は競争に満ちていて、勝ち抜いていかなければならない
それは一つの真実だろう
特に心の持ち方としてはその通りであるように思えるが
しかし、実生活において、勝ち抜くために心の持ちよう、身体のリズム
と反する事をしなければならないとすると
それはかなり不自然な事のように思える
他の動物と比較して人間の武器は何かとか考えた時
特別強い力があるわけでもないし
早く走れるわけでもないし
空を飛べるわけでもない
だが現実に今のところ地球上の最上位の立っていられるのは
知恵とか言葉があって、感情が存在するからだ
しかしこの知恵の部分、感情の部分を上手く活用していない
競争社会に勝ち進んでいかなければならない
しかし、どんな方法でも勝てばいいのかと言うと
決してそうではない
このブレーキをかける部分、
おそらく感情に依存する部分の重要度が
現在ではあまりにも軽視されているのではないか
じっくり考えた事
なんとなく感覚的にそうだと思う事
いったいどちらが正しいかと考え場合
必ずしも理性に依存した方が良い結果が出るとは限らないだろう
第一、実生活では人はあまりにも感情に左右されている
理性と感情が喧嘩をすれば勝者はいつも感情であるのに
その暴れ者の感情は、社会生活では理性に仕切られてしまっている
ほどほどの理性と感情のバランス
そしてそのための訓練
人としての完成はここに至るように思えるが
世界の共通言語が「金」の傾きつつある現在
このような考えを持つ事自体が「甘い」事のようにさえ思えてきている
やはりこの時代
社会変化だけでなく気持ち、心の変化も劇的に以前のものとは
変ってしまったと
後世の歴史書には書かれるのだろう