パンセ(みたいなものを目指して)

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読書の秋! (真面目に神の問題とか)

2007年09月30日 10時27分07秒 | Weblog
「神は妄想である」
リチャード・ドーキンス著 早川書房

帯のコピーに
「あのドーキンスがなぜここまでむきになるにか?」
とあるが、なるほど確かに翻訳を通しても怒りのような
感情は感じ取る事ができる

宗教というものに真正面から向かい合う事の少ない日本人には
このようなタイトルの本を出版する事自体が
奇妙に思われる事なのだが、そういえば
ニーチェの「神は死んだ」発言も、実はその実態を
キリスト教のしがらみを受けていない我が国は正確に
解釈しえるのだろうかと思ってしまう
さらにドストエフスキーのカラマーゾフにしても
ロシア正教やロシア人のメンタリティーを知らずに
遠いこの国で判断するのは、傍観者のそしりを受けても仕方ないだろう
(だからと言って日本人のそれそれの解釈が無用のものというわけではないが)

自然を観察した時など、その調和のとれた営みに
つい神秘的な恍惚感、充足感を感じる事は
比較的多くの人間が経験する事だろうが
それが宗教として一神教のもとに膝まつく感覚は
我々日本人には結びつかない事が多いだろう
われわれはもっと緩やかな万の神を感じるようだ
しかし、やっぱりここでも神を感じている

まだ読書の途中の段階だが
彼の言うように「神は妄想」であるかもしれない
しかし、おそらく人は、妄想であったとしても
神を作り上げられずにはいられない生き物の様な気がする
そしてもしかしたら、そのように何か完全なものを求めようとする
心の働き自体が神の働きとさえ思うのではないのか

祈りの効用を実験的に調査して
祈り自体は病気の人には何ら作用しないと結論が出たとしても
おそらく人は祈る事を辞めないだろう
何ら手段が無くなってしまい、あとできる事が祈る事だけだったとしたら
人はそれが効果があろうがなかろうが祈るに違いない
それは現実には祈る本人の自己満足かもしれないが
祈る本人はそんな事も自覚して祈る事だろう
そしてこのようなタイプに、人間はえてして
偶然の一致と思える様な瞬間を感じる事があって
神の存在を感情として感じることになるだろう
こうなってしまうと、もう理性は感情には歯が立たない

何でもそうなのだが、一番の問題は、宗教に問題があるというよりは
宗教を解釈して実戦しようとする
利の多い人たちに問題がありそうだ

キリストも(存在したらの話だが)仏陀も
大変な思いをして何かを求めた
その求めたものを要領よく得ようとすると
中間に解釈、説明する人の判断が入って
どこかおかしな事になってしまう
本当は人はキリストや仏陀、マホメッドの解釈をするより
彼らの求めたものを自分も追求すべきだろう
その意味では原理主義に向かうかもしれないが
ここでも注意しないとすぐに解釈家が生まれてしまう


ヘッセに「シッダールタ」という小説があるが
この本にある主人公のシッダールタは
この意味では彼は自ら仏陀の求めたものを、
自分も求めた形になっている
内容としてはあまりにもロマンティックすぎて
否定的な考えを持つ人もいるだろうが
ヘッセの真剣さの度合い、迫力は有無を言わさないものがある

神は存在するかどうか?
現在の我が国においてはあまり実用的な問題ではなさそうだが
こうした問題をむきになって考えようとしている
欧米には正直かなわないなあ!と思ってしまう
日本に必要なものは役に立たなくても
こうした思考であるように思うのだが、、、
コメント
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