パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「美を求める心」小林秀雄全集から

2013年12月18日 20時17分18秒 | 
初めてかもしれない
この人の作品の中で
こんなに無条件に納得できたのは

抵抗感なく読み進むことが出来て
途中からは終わりのページにまだ行きませんように
と思ったりしたのが小林秀雄の全集の中から
「美を求める心」

音楽がわかる、絵画がわかるということは
どういうことか?
の考察から始めていく

同じもの見ても、聴いても
そこから得られる情報量は慣れた者と素人とは全然違う
例えば何でも鑑定団の鑑定家の目は素人の目とは
まずはチェックポイントが違う
作品を一瞥しただけで僅かな差異を見つけ出してしまう
また創作の息吹さえも
音楽にしても同じこと
何かを感じるには多少の訓練が必要で
もちろん訓練しないでも感じることはできるけれど
その感じ方というのはその深さに大きな差がある

つまりは、簡単に鑑賞しているだけの芸術作品を味わうのにも
訓練が必要ということ
いわゆる感性の一言で済まされる問題ではないということ

こうした考察が無理の無い自然な流れ筆致で進められていく

深い意味での美を感じる能力は誰にでも備わり
そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。
ただこの能力が私達にとって、どんなに貴重な能力であるか。
また、この能力は養い育てようとしなければ衰弱してしまうことを
知っているひとは少ないのです。

この美を求める心は
今で言うリベラルアーツに通じるものなのかもしれない
技術や知識の急激な進歩は、現在の状態をすぐさま陳腐化してしまう可能性がある
常に最新の姿を追いかけ、ますます専門化していく社会
だがこの方向だけでは限界があるし
専門分野に特化するだけに人間性を欠いた危険な判断に陥りそうな可能性がある

そこで登場するのが、どんな時代にも応用が効く柔軟な判断力を持つ技術
それは時代遅れと言われそうな教養のこと
そしてその教養の中の一分野としての美を求める心

確かに世界に大した役割を果たしているようには思えない
芸術作品がこの世になくて
実用品ばかりが存在していたとしても
人間は暮らしていけるかもしない
しかし、それはなんとつまらない世界だろう

多分、こんなつまらないと言う言葉では片付けられない以上の機能を
芸術・教養・美を求める心は持っているに違いない

だがこの美に通じる世界が
それが人間生活に有用かどうかと言うより
それを対象とした経済活動上で有効かどうかで
進められていってしまうのが現実

それでも、多分、それでも美に殉ずる人間は
きっと生まれ出てくるのだろう
いや、出てきてほしいと切に望んでしまう


コメント
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