名盤の誉れ高いフルトヴェングラーと
バイロイト祝祭管弦楽団の組み合わせのものは
かつて感じた圧倒的な感動が薄れてしまうのが怖くて
気楽に聴けないでいる
体調・精神のコンディションが良い時に
真面目に向かわないとダメな気がしている
今後そんな時が来るかどうか分からないが
たとえ来ないとしても今までにあの演奏で
充分すぎるほど感動を与えてもらったから
不満はない
ということで、今日急に思い立って取り出したのは
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オレケストル・レボリュシュネル・ロマンティックのCD
ただ、聴いていて、ついついいろんな箇所で
フルトヴェングラーの演奏と比較していた
この演奏、一言で言えばスポーツカーのような演奏
高性能なDOHCエンジンを積んで車体は軽くして
一気呵成に走り切るみたいな感じ
ずいぶんテンポが早い
音に思いを込めるなんてことはしない
音楽の一瞬一瞬が全て現在の出来事のよう
過ぎ去った音の効果はまるで気にしないかのよう
演奏家はよく訓練されて指揮にしっかりついてきている
スケルツォの楽章の楽器間の出たり入ったりの
受け渡しは印象としてあまり立体的じゃない
(フルトヴェングラーのと比べて)
リズムはちゃんと刻んでいるのだが、、、
第3楽章もサラサラと流れていく
思索的な沈潜よりも音響としての楽しみ方が優先
フルトヴェングラーの演奏では胸をかきむしられるような
あのファンファーレの後の静寂・寂寥感は
この演奏では少しも感じられず
こういう演奏もあるのだ
と思いつつも少し不満
最終楽章も4つのテーマが回帰して否定されて
それから喜びの歌のメロディーが出てくるのだけれど
なんだか無理やりくっつけたような印象
フルトヴェングラーのでは必然と思われたのに、、、
結局、最後まで楽しむというより
比較に終始してしまった
ちょっと不漫が残ったので
もう一枚ラトルとヴィーン・フィルのCDを引っ張りだして
第3楽章を聴いてみた
音楽が始まった瞬間
こっちの方がいい(ガーディナーより)
ホッとした感じに包まれた
そしてなんというヴィーン・フィルの繊細な音であることか
そう、ラトルの演奏はとても繊細な感じ
楽譜を読み込んで解釈されているような演奏
でもこれは集中して聞いていると感じること
不意にまたフルトヴェングラーの演奏と比較することになったが
フルトヴェングラーの演奏も集中して聞いているのだが
途中から音楽があちらの方から自分の方へ働きかけてくる
聴きに行くのではなく饒舌に語りかけてくる
演奏者も何故だか指揮に従うというよりは
音楽の流れに任せて楽器間のやりとり、フレーズの受け渡し、
楽器間の音量のバランスを自由に行っているように思えてくる
音楽の演奏という行為の中で何が出来たのか
単なる時間の流れを楽しむレベルではない
全人格的な体験となる深い演奏
フルトヴェングラーの音楽はそんな感じ
でも残念ながらこんな演奏は出てこないだろう
時代も変わってしまった
この様な演奏も期待されていないのだろう
自分にとっては今年のドイツ旅行の
ハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りは
重要なポイントだったが
フルトヴェングラーは
すっかり過去の人になってしまっていた?
ハイデルベルク駅のインフォメーションで
フルトヴェングラーのお墓はどこ?
と尋ねると
フルトヴェングラーって誰?
と返ってきた
ハイデルベルクの彼のお墓は
もはや鳥たちが見守るだけなのだろううか
6月に尋ねたフルトヴェングラーのお墓は
鳥たちの奏でる音楽に満ちていた
バイロイト祝祭管弦楽団の組み合わせのものは
かつて感じた圧倒的な感動が薄れてしまうのが怖くて
気楽に聴けないでいる
体調・精神のコンディションが良い時に
真面目に向かわないとダメな気がしている
今後そんな時が来るかどうか分からないが
たとえ来ないとしても今までにあの演奏で
充分すぎるほど感動を与えてもらったから
不満はない
ということで、今日急に思い立って取り出したのは
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オレケストル・レボリュシュネル・ロマンティックのCD
ただ、聴いていて、ついついいろんな箇所で
フルトヴェングラーの演奏と比較していた
この演奏、一言で言えばスポーツカーのような演奏
高性能なDOHCエンジンを積んで車体は軽くして
一気呵成に走り切るみたいな感じ
ずいぶんテンポが早い
音に思いを込めるなんてことはしない
音楽の一瞬一瞬が全て現在の出来事のよう
過ぎ去った音の効果はまるで気にしないかのよう
演奏家はよく訓練されて指揮にしっかりついてきている
スケルツォの楽章の楽器間の出たり入ったりの
受け渡しは印象としてあまり立体的じゃない
(フルトヴェングラーのと比べて)
リズムはちゃんと刻んでいるのだが、、、
第3楽章もサラサラと流れていく
思索的な沈潜よりも音響としての楽しみ方が優先
フルトヴェングラーの演奏では胸をかきむしられるような
あのファンファーレの後の静寂・寂寥感は
この演奏では少しも感じられず
こういう演奏もあるのだ
と思いつつも少し不満
最終楽章も4つのテーマが回帰して否定されて
それから喜びの歌のメロディーが出てくるのだけれど
なんだか無理やりくっつけたような印象
フルトヴェングラーのでは必然と思われたのに、、、
結局、最後まで楽しむというより
比較に終始してしまった
ちょっと不漫が残ったので
もう一枚ラトルとヴィーン・フィルのCDを引っ張りだして
第3楽章を聴いてみた
音楽が始まった瞬間
こっちの方がいい(ガーディナーより)
ホッとした感じに包まれた
そしてなんというヴィーン・フィルの繊細な音であることか
そう、ラトルの演奏はとても繊細な感じ
楽譜を読み込んで解釈されているような演奏
でもこれは集中して聞いていると感じること
不意にまたフルトヴェングラーの演奏と比較することになったが
フルトヴェングラーの演奏も集中して聞いているのだが
途中から音楽があちらの方から自分の方へ働きかけてくる
聴きに行くのではなく饒舌に語りかけてくる
演奏者も何故だか指揮に従うというよりは
音楽の流れに任せて楽器間のやりとり、フレーズの受け渡し、
楽器間の音量のバランスを自由に行っているように思えてくる
音楽の演奏という行為の中で何が出来たのか
単なる時間の流れを楽しむレベルではない
全人格的な体験となる深い演奏
フルトヴェングラーの音楽はそんな感じ
でも残念ながらこんな演奏は出てこないだろう
時代も変わってしまった
この様な演奏も期待されていないのだろう
自分にとっては今年のドイツ旅行の
ハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りは
重要なポイントだったが
フルトヴェングラーは
すっかり過去の人になってしまっていた?
ハイデルベルク駅のインフォメーションで
フルトヴェングラーのお墓はどこ?
と尋ねると
フルトヴェングラーって誰?
と返ってきた
ハイデルベルクの彼のお墓は
もはや鳥たちが見守るだけなのだろううか
6月に尋ねたフルトヴェングラーのお墓は
鳥たちの奏でる音楽に満ちていた