理解しているということが、うまく説明できたり言語化されることだとしたら
自分の読書などは落ち込むほど理解していないことになる
読書を終えたあと、残っていることといえば「面白かったな」とか「すごいな」とか
「自分と同じ考え方だ」とか部分的に気になるセンテンスくらいなもの
あとがきなどを読むと、時に自分は何を読んでいたのか、、と思うことがある
先日、本を読んでいて、急に次はリルケの「ドゥイノの悲歌」を読もうと頭に浮かんだ
進行中の本とは全く関係のない本で、何故そんなことを思ったのか見当がつかない
だが、「ドゥィノの悲歌」を読もうと思ったことは、とても必然で有ったような気持ちがしている
「ドゥイノの悲歌」は以前読んだことがある
今でも覚えているのは「すごいな!」という印象だけ
何か(熱狂)が舞い降りてきて、その勢いのまま突っ走っているような
全体として中身の詰まった作品というようなおぼろげな印象
それでも9番目だったかに、「一度だけ、、、」云々の歌は切実感に満たされ
あのときも泣きそうになったようなことも、今思い出した
結局のところ、記憶は何故それが残っているかわからないような奇妙な選択として
残されていることが多い
夢などはその典型なのだろう
なにか本を読む、音楽を聴く、絵画を見る、身体的なパフォーマンスを見る
そこでは「何かを感じる」ことしかできない
その「何かを感じる」あるいは「何かに気づく」感覚は自分にとっては
喜びにもつながるとても大事なものだ
全ては「何かを感じる」「何かに気づく」からスタートするのだろう
それが、教科書通りの理解の仕方、感じ方でないとしても
書店で「ドゥイノの悲歌」を購入した
最初だけ読んでみた
やはり何かが舞い降りてきたような、、その感覚は今回も感じられた
ちゃんとした理解云々は専門家でもないし、人に伝えるのが仕事でもないので自分勝手に楽しむとしよう
楽しめそう、、と感じているのは、間違いないことなので