ラグビーのルールはよく知らないし、強いチームは身体的能力以外にどこが良くて
勝ち続けているのかわからない
だが、日本人(のメディア)が好んで使う「司令塔」には少し違和感を感じる
司令塔の言葉でイメージされるような、命令に沿って選手は動いているのだろうか
むしろ瞬間瞬間の自己判断や、自動化されるまでにいたった効果的な戦術を
反復練習で身につけていて、司令塔という言葉自体が存在しないことこそが
強い証なのではないのか
(ただキャプテンというか、気持ちの上でのリーダーは必要だと思うが)
サッカーでも司令塔の言葉は日本ではよく使われる
いやサッカーに限らずどのスポーツでも最近は、〇〇ジャパンと監督の名前を
一番最初にあげて、チーム自体が縦の関係にあるような印象をもつ
ヨーロッパのサッカーチームはいつもではないが監督と喧嘩をする選手が現れる
あの監督が嫌いだから代表に呼ばれても参加しないとか
少し変わった例では飛行機が怖いから遠い国への試合には参加しないとか、、
そこには自分は自分だという「個」が存在するように思われる
(実際のところ良い選手は自分の言葉で語ることのできる個が確立している)
日本人は命令されることが好きなのではないか
自己判断は責任を伴うので誰かに命令されたことをしただけ
とするほうが気が楽だ、、、と思いたがっているのではないか
何も大げさに考える必要はないが、日本は「個の確立」ができていない
というか、最初からそれを求めていないような気さえする
これは明治に西洋思想を受け入れた時代でも、少なくない知識人が実感したことようだ
新潮社や小学館の内部でブレーキを掛ける人物がいなかったのか、と思われる事件や
関電や日産の奇妙な金の流れなど、そこには「個人としての判断を放棄した存在」がある
圧倒的な自分の立場の現実があるとしても、何かしら違和感を感じたことに自分を偽って同調する
世の中はそんなものだ、と言い切ってしまい、それが世間の知恵とするのは
「美しくない」との価値判断を自分はしてしまうが、
世の中のひとの多くがこうした「青い思い」を持てるようになったら
社会はもう少し生きやすいに違いない、、と思ったりする