先日、伸び過ぎとなっている樫の木の剪定を我が家の偉い人から頼まれた
我家の庭には小心で慎重な小市民の、お金に苦労したくない気持ちを反映して
語呂合わせで「貸し」(樫)「借りん」(花梨)の木が植えられている
この樫の木が我が家の土との相性が良いのか、とても元気が良い
夏のはじめに樹形が見えるほど切り落としたシラカシの葉や枝が
しばらくすると猛烈な勢いで葉っぱが盛り返す
もう一つの樫の木も、小さな芽がニョキニョキと伸び、その一部が
道路側にも出始めていた
この時期の恒例で、こうして誰かさんのちょっとばかりキツめの言い分を聞いて
それに従うというのも、幸せなことかもしれない
いつもなら、「今年の作業は終了!」で大した感慨も無いのだが
今年は不意に目に入った松の枝に少し驚きを覚えた
絵心が無いので自分が感じたものを撮り切れていないが、その松を見たとき感じたのは
「絵と同じだ!」ということ
襖や能の舞台に書かれた松、それと一緒だという印象
感心したのは、絵師が自然の松をいかに本物に近く描写したかという点ではなくて
絵師が描いた松が(その生命力のようなものが)目に前にあるということ
どちらが先かといえば、絵師の松のほうが先にあって本物の松が後追いしているような気がしたのだ
でもその思いも瞬間的なこと
日本人が松が好きなのも、何となく分かるな、、という思いに落ち着いた
我が家の偉い人の言うには、松も時間をかけてやっと味わい深くなってきている、、とのこと
なるほど、ところで自分は時間をかけてどうなっているのやら