パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

理解の及ぶ範囲内での理解(それは本質的な理解か?)

2021年09月12日 09時20分12秒 | あれこれ考えること

将棋の藤井聡太氏がとんでもなく才能にあふれて、可能性に満ちた活躍を続けているが
将棋をよく知らない人間は、将棋以外の面で楽しさを味わうしかない
例えば、解説する将棋の棋士には変わったキャラクターのいい人が多そうとか
昼ごはんは何を食べたとか、、
つまりは、自分が理解できる範囲、分野で彼を、あるいは将棋をわかった気になるしかない

これなどは当たり前のことと納得する人が多いだろうが
だが、この傾向を少し別の分野に当てはめると少し心配なことが出てくる

菅さんが首相になったとき、もてはやされたのが「令和おじさん」と「パンケーキ」だった
左党ではない菅さんは庶民的なパンケーキを食べる人として、その連想の赴くまま彼を評価する
彼の向いている方向性やら、行ってきたことで彼を理解したり判断するのではないのだ
流石にみんながみんなそういう訳ではないが、それでもわかりやすさのパワーは馬鹿にできず
全体の空気としては、この空気を醸し出した人たちには効果期な情報発信だったと思われる

人は残念ながら自分の理解の及ぶ範囲内での理解しかできない
この理解できる範囲というものが曲者で、物理的・科学的なものは最初からお手上げで
自分でもわかった気になっているだけなのは自覚する
だが、普通の日本語を用いてわかったような気にさせるものは、その分野の背景知識がないと
正当に評価できないことがある
今度の秋に行われる政治的な分野はその筆頭で、人にはいろんな考え方がある以前に
現状を理解することすらできていないのではないかとさえ思えてしまう

国に限らず地元においても、個人の理解できる範囲は肝心のポイントではなく(将棋本体ではなく)
他の関係ない分野(昼ご飯)に終止しているのではないだろうか

理解が進んでいないと思われる普通に存在する集団は、結果的に最悪を防ぐ力を持つものなのか、
それとも感情に煽られて芳しくない選択をしうるものなのか
オルテガでなくても心配な気持ちをつい覚えてしまう



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