今朝、急に京都のことに思いを馳せたのは実はこの本がきっかけだった
少し前の中日新聞の書評にあった本で、フィンランドの女性が
清少納言の暮らした日本(京都)での生活や感じたことを
枕草子風(随筆風、ブログ風)に書いたものだ
彼女は清少納言にシンパシーを感じている
帯にあるように似ていると感じている
そのように感じることは珍しいことではなくて、割合よくあることのように思われる
(自分でもそんな気になる人がいる)
本がアマゾンなら届いて二三日、まだ途中だが、なかなか面白い
例えば京都の嫌になるほどの暑さが、目の前に起きていることのように描写される
それは精緻な描写というよりは、喚起力の強い文体で、簡潔で過不足ない文体は
少し憧れる
これは通してみればビルドゥングス・ロマン風な成長の記録かもしれない
だが、この感じ、前にもあったっぞ、、と思い浮かんだ
それはフランスのピアニスト、エレーヌ・グリモーの「幸せのレッスン」だ
「幸せのレッスン」はタイトルとして軽すぎる感じだが、
内容はピアニストの片手間仕事ではない切実感と幻想的な雰囲気に満ちた
読みでがある本だった
欧米の女性の感覚は、共通してこんな感じなのだろうか
ふとそんなことを考えた
確かに男が書くような文体とか感じ方ではない気がする
そして昔の日本においては、女性が物書きとして足跡を残しているのは
単なる偶然ではなく、洋の東西を問わず女性は作話能力の優れているせい
とも思うのだった
彼女が廻る京都を思い浮かべながら読むのは、YOUTUBEで京都の動画を
見るような感じで、懐かしさも感じることができる
(その分、京都に行きたくなる)
それにしても、彼女は一年の休暇期間を取ることができたとサラッと書いているが
そのようなことが可能なフィンランドの社会に驚く
日本では少し考えにくいことだ
日本では歳をとってもずっと働けることが幸せのような
あるいは働かなければ暮らしていけないような雰囲気があるが
つい、幸せって何だっけ?と考えてしまいそうになる