テレビはオリンピック報道ばかり
これだけオリンピック依存が高いとオリンピックに否定的な人の意見は
テレビ局は鬱陶しいかもしれない
(個人的には、もはやオリンピックは商業主義のイベントに過ぎず
弊害が多すぎる気がしている)
NHKの例の字幕はその現れで、単なる間違いだったというよりは
何らかの意図があったと思われても仕方ない
(視聴率を稼ぐせっかくの機会を否定するようなデモ行動は目障りだとする)
オリンピックははっきりと勝ち負けがつくので(判定競技以外は)
その厳しさ故に凄みのある美しさ・残酷さを生み出す
それは実はオリンピックに限らずスポーツの世界につきものだ
だが4年に一回ということが「運のあるなし」の劇的なドラマを
人に思い起こさせるので、勝負よりももしかしたら時間の経過の意味とか
残酷さをより味わっているのかもしれない
ところで、高梨沙羅さんの失格について彼女はSNSで真っ黒な画面と
謝罪の意を現している
謝らなくてい良いという意見がある反面、追い打ちをかける様な
きついバッシングもあるしい
これは日本だけに限らず中国でもフィギア団体で上手くいかなかった
女子に対して相当酷い言葉があったらしい
勝ち負けがはっきりする戦いは、どうしても心情的に国という存在を
捨てきることができない
その気持はわからないではないが、瞬間的な気持ちの発露は
多くの人を傷つけることになりそうで、気持ちのコントロールができるようになると良い
SNS等で簡単にバッシングする人は、競争した選手の努力が
応援している選手のそれと同じくらいであることを認めていないかのようだ
戦った当事者は相手の努力を肌で実感するからリスペクトにつながるが
テレビ見てるだけの人は今起きている事柄に感情的な脊髄反射を
してるだけのように思えてしまう
ところで、話は変わって、高梨沙羅さんの失格についてその反応の仕方が
国によってかなり違う、、との報道を見かけた
失格になったのは高梨さんだけでなく、ドイツを始めとする数カ国があるが
この他の国の反応が日本とだいぶ違うようだ
どうやら正式に抗議しているのではないようだが、失格判定に怒りを現している
それは「自分たちは失格になるようなことはしていない」との意思表示だ
確かにスーツの数字は規定をオーバーしていた
しかし体の計測方法が今までの方法と今回は違ったようだ
選手やスタッフに予め変更するとの連絡はなかったようだし、
計測する人の人数も何故かいつもより多かったらしい
日本は事実は事実として数値オーバーを認めて、高梨さんは謝罪という形になったが
このスーツは数日前に着ていたものと同じで、その時はクリアしている
高地で体重減が起きて体がサイズダウンして前は良かったスーツが
今回はだめになったらしいと、、想像の報道を見かけたがそれが正解かどうかはわからない
日本の報道(社会)は他国には違和感を覚えさせるらしい
金メダルが取れなかったら謝罪する
少し違和感のある判定に対しても声をあげない
そのメンタルはどこかおかしいらしい(西欧的な規準からすると)
日本は世間の目とかお上(権威)に弱い(と思えてしまう)
一旦出来上がった世間の空気とか、あやふやでも出来上がってしまったものに弱い
そこには「自分の判断」という行為がない
判断があるとすれば、誰の判断に同意を示すかという判断しかない
アイヒマンの裁判では「たとえ命令されたことでも、あなた自身が判断する要素はあった」
と個人としての彼を裁いている
ところが日本の社会は「個人」はどのくらい確立され教育されているのだろう
政治の世界でも議員の一番の権利行使である採決も、党議拘束で自己判断はできない
これは組織として当たり前のように感じる日本人は多いかもしれないが
アメリカでは無闇矢鱈と党議拘束はないらしい(トランプさん以後は怪しいが)
日本の権威に弱く世間の声に弱いメンタリティは、そのような人が多い中では気づかない
権威に弱いというのは一種、肩書に弱いということだ
肩書は判断材料の一つになるが、肩書がそれなりでも「なんだかなあ〜」という人は多い
ということで、気づかないでいるかもしれないが、ちょいと日本は心配な状況下にある
と田舎のおっさんが感じてしまうということ
(この愚痴が後の時代に、現在の空気感を表す資料になると良いな)