パンセ(みたいなものを目指して)

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「既成事実への屈服」と「権限への逃避」

2024年04月19日 09時43分56秒 | あれこれ考えること

二三日前から読んでいる丸山眞男の「現代政治の思想と行動」
その中に「日本ファシズムの矮小性」という章がある
これを読んで驚きを覚えた
そこで紹介されていることは現代でも悲しいくらいよく見かけることだった
それは「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の2つだ

戦争の是非はともかく、始まってしまったら心構えは
現状を肯定しそれに従うしかないということで(これが既成事実への屈服)
それに反対する人は力でもって対処することも正当化される
だがそもそも戦争が始まってしまった大きな理由は、上からの先導もあるが
庶民の盛り上がりも馬鹿にできなかったとしている
ところがこの庶民の盛り上がりというのは全体的な声というより
ヤクザとか極右とかハンナ・アーレントならモッブと呼ぶ連中のことで
この連中は「天皇機関説事件」で大きな声を挙げた一部の声だ
つまりは全体としての声というよりは偏った連中の大声で
世界はまるで彼らの訴えるようになっていると勘違いしたり
そのほうが都合の良い連中がいたりして無鉄砲に進んでしまった

その結果は無惨なものだったが、今度はその責任を問うと
「自分の立場は命令する権限はなく、上からの司令に従っただけだ」
(この弁明が権限への逃避)
とほとんどのかつての支配層は弁解する
これはアイヒマン裁判におけるアイヒマンの弁解に似ている

とても大きな失敗をしたわけだが、一部の偏った思想を信じ込み
それを全体の方向性と見誤り、始まった以上は現状肯定するしかないとし
そこで多様な意見を封じ、最後の段階ではこうした判断を遂行していた人物は
権限もなかったから責任もない、、としている

この姿を最近の光景に落とし込むと、オリンピックも万博も
計画がスタートしてしまったからには現状肯定で進めるしかないと
思い込もうとさせる空気と似ている

そして責任の所在の不明さは例のキックバックの問題やら森友事件の
官僚の曖昧な責任に通じる

そして一部のモッブと呼ばれる連中の大声は、ネトウヨとか
新聞広告に出せるほど儲かっているとは思えない2つの月刊誌
「月刊 HANADA」「WILL」の極端な主張を連想させる

人は過去から学ぶことで、失敗を未然に防ぐことができるとしている
しかし、今のこの国は本当に過去から何かを学んでいるのだろうか
と思わざるを得ない

現実問題として田舎の一庶民が、どうこう言ったところで世の中は
変わるとは思わないが、それでも何らかの警鐘を鳴らし続けることは
無駄ではないと信じたい


※ 偶然に見つけたものに「アレントのモッブと戦前日本のファシズムの近似性」
  があったそれはこちらから↓
アレントの「モッブ」と戦前日本のファシズムの相似性 | 松下政経塾 (mskj.or.jp)

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