パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

受け身ばかりでは馬鹿になる(と思う)

2024年07月18日 09時39分16秒 | あれこれ考えること

大谷さんがオールスターズでホームランを打って
予想された通り日本のメディアは大騒ぎだ
大谷さんが悪いわけではないが、このはしゃぎっぷりはどこか異様だ
もう少し後にはパリ・オリンピックの報道一色になるのは予想される

分別くさくなる気がないが、こんなんで日本は大丈夫なのかと思えてならない
この「パンとサーカス状況」が誰かの意図か、それとも自発的なのかわからないが
受け身ばかりの情報収集は危険に満ちていないか

最近はコスパだけでなくタイパとの概念が広がっている
タイムパフォーマンスとは時間の効率の良い使い方のことで
録画を倍速で見ることもその方法の一つだ
自分が心配なのは、難しい本は理解に時間がかかって仕方ないので
わかりやすい解説本と要約本がタイパが良くて好まれるという傾向だ
選挙でも多少の前提知識を必要とする難しいことを言う人は避けて
単なるイメージの良さとか露出量の多さとか
わかりやすいことを訴える人を良しとする傾向も少し心配だ

これは果たして良いことなのだろうか?
難しい本が難しいのは、齋藤孝氏のある本によれば、
著者がまだ考えがまとまっていないうちに書き進めているので
その迷いみたいなものが感じられるのでスッキリした理解にたどり着けないとしている

そうかも知れない、、と思える本もあるが
難しい本が難しいのは、実は読み手の人生経験不足とか能力不足が大きいのではないかと想像する
全く知らない歴史的事実の羅列は、知らないだけで難しい本とは言わない
難しい文章とは、知っている言葉が書かれているが、回りくどくて、そこにいろんな意味合いとか
思いとか、想起すべきものが込められているので、その意図を想像できないとお手上げになってしまう類の本だ

ハンナ・アーレントの全体主義の起源とか、マックス・ウェーバーの示唆に富んだ本は
一回目はロールプレイゲームに放り込まれた感じで悪戦苦闘して、わからないにしても
戦っている充実感は感じられる
時間をおいて再読すると、今度は周りくどい文章に込められた意図をそれとなく感じるので
先の読書とは違った印象を持つことになる
その実感は個人の内的な時間経過の絶対量によって変わる

読んだ本の大半は忘れてしまうのが、多分普通の人の人生
だが読んだ本は全く記憶から消し去られているかと言えば
おそらく意識するかしないかの部分で何かが残っているのではないか
アインシュタインもそのようなことを言っている

ということで、難しい本は難しい本なりの存在価値がある
でも今は難しいというだけでスルーされるとしたならば
世界は豊かなものにならない

昔の学生は、読みもしない難しそうな本をこれみよがしに見えるように持っていたそうだ
今ならMacをスタバで使っているのを見せるようなものかも知れない
自分くらいの年令になると、それらはなんかかわいいな!とも思う
そしてこうした見栄は若者には必要かもしれないとも思ったりする

学生には地下鉄や電車の中でスマホゲームをするより
小難しい本に集中している姿を見せて欲しい


コメント
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