世の中にはわからないことが多くある
例えば、量子力学とか相対性理論とかひも理論とか多次元のこととか
素数に関することなどは直感的にわかりにくい
それに取り組んでいる人たちにとっては面白くてたまらないことでも
部外者は全く理解できずに沈黙するしかない
こうした場合、わかった気になる方法はその道の第一人者の話を聞くとか
入門編の本を読むとかで、そこには自分の考えが入る余地はない
そこでは信用できそうな人の言い分を完全にわかったわけでななくても
受け入れるしかない
だが、世の中には難しい問題でも素人が善悪を含めて決めつけ気味なことが多くある
例えば政治とか経済のことがそれだ
最近の例では103万円の壁の問題
確かに、この制度が設定されてから今までずっと同じ金額になっているのは
物価の上昇を考えれば、不自然なことと考えられる
(生活に最低限必要な基礎控除がそのままなのは、制度運用者は
生活の実態を知っているのかと思えないことはない)
だが、壁の数字をあげると今度は回り回って地方に回される交付税が少なくなって
自治体の運営に支障をもたらすとの考えがあるようだ
つまりは人間世界の中では、一ついじると、その他の分野に影響があって
その点だけの視点では考えられないということだ
だが、感情を伴う素人の発想はそこまで複雑な思考はしない傾向にある
知らないものの強みで、物事を単純化して、それこそが正しい考え方と思い込む
(だから政治や経済に素人は口を出すなと言うことではない)
確かに政治とか経済の複雑系の話題は専門家の意見を参考にすることある
ただその専門家の選び方は完全に客観的になされる訳では無い
最近では「ザイム心理教」なる考え方を全面的に受け入れるひととか
MMTを盲信する人たちは、それ以外の考え方を否定する傾向にある
そこには何故「ザイム真理教」とか「MMT」を信じ、他の方法は間違っているかを
説明できるだけの思考がなされているというよりは、
自分の信じる人が言ってるから信じるという段階で留まっているように思える
というものの、何でも知っていたり考えることのできない大半のひとは
それでも自分の信じる人を信じて、自らの考えとするしか手はないかもしれない
ここで問題となるのは自身の気持ちとか考えかたの選択は
思いのほか感情に支配されるということだ
これこそは本当のこと!と信じる根拠は感情にストンと落ちることで
それがあって初めて自身の考え方になる
しかし、この感情はなかなか厄介で、時として困ったことを引き起こす
例えば兵庫県の県民局長の死の理由は、「不倫がバレたから」という
わかりやすい話に置き換えられて、本来追求されるべき百条委員会の問題は
一部の人にとってはどうでも良くなってしまった
感情を揺さぶることを技術的にコントロールしようとする輩は
残念ながらどの時代どの地区にも存在すると思もわれる
人はそうした危険性から自らを守るために何をしたら良いのかは
とても大事なことだと思うが、本当にどうすれば良いのだろうか
ところで経済については、財政規律主義(財務省)、リフレ派、MMT派
という考え方があって、それらを比べたものがネット上にあった
「日本の財政に関する専門家たちの意見」
これを読むと、なにかを唯一の選択肢と思い込むのは
どこか早とちりのような気がしてきた
ただ、それでも選ばなければならないとするなら
良し悪しというより一種の「覚悟」の問題と思えてしまった
相変わらずのまとまらない話
(まとまらない話のカテゴリーを作ったほうが良いかもしれない)