「寛容は自らを守るために不寛容に対して寛容であるべきか?」
この問は一部の人にとっては有名な問らしい
表現の自由についてもこれと似た問題が時々見られる
ヘイトスピートをしてならない!という人に対して
「ヘイトスピーチをするのは表現の自由で守られている」
の反論がそれだ
このような「ああ言えば、こう言う!」が
単なる言葉の上の解釈で終わるならばその反論は成り立つが
人としての感情・常識を持つならば、それは受け入れがたい
実際にフランスでは法的に(?)「ヘイトスピートをする自由はない!」
とされているようだ
そして、そう言い切ることは、何もかもが曖昧な日本と比べると
そのようなことをを決めている事自体が面倒な国だなと思う反面
はっきりしている分スッキリする
どうやら自然法的な人ならば自然に持つであろう感情・倫理観による
判断が明文化されているようだ
この常識的な判断とか発言が、今の世の中は蔑ろにされていないだろうか
先日の大谷翔平さんが日本の小学校に野球グラブを1校当たり3個寄贈する
報道を受けて、何でも文句を言いたい人は
「3個じゃ足りない、他の6人はどうするのか、大谷はケチだ!」
とSNSで発信したらしい
理屈の上では彼らの発言は完全に間違いではない!と言えるかもしれない
だが、わざわざそれを言うか!という気持ちが湧いてくる
(そんなことは言わなくて済むことなのに、、、)
そして少し残念なのは、これらの発言を面白がっている人たちが
相当数いるという現実だ
ディベートの技術的な手段ではなく、人としての感情・倫理観に基づいて
安易に思いついたことを口にしない!
ということが最近の世の中はできていないような気がしてならない
ということで、本当に最近は余裕のない世界になっている
その余裕の無さは、分厚い中間層がいなくなった経済的な不安から来ているのか
それとも別の理由があるのか、、
きっと複合的な理由なのだろうが
「極端でない意見は注目されない」傾向のある今の社会は
少しばかりよろしくないと思えてしまう
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