なかなかコントロールしにくいのが怒りという感情
最近では「きれる」という言葉で、瞬間湯沸かし器のような反応が
若者だけでなく、いい歳をした大人までにも見られるようだ
怒りは人を攻撃するあまりよろしくない面もあれば、
時には否定的な面ばかりでなく、あるきっかけの発端となるような
少しばかり肯定的に捉えられそうなこともある
最近、裁判と政治倫理審査会の傍聴という滅多にお目にかかれない経験をした
裁判は一年半ほど前からのものだが、やっと証人が法廷に立って、テレビドラマ風の
ドラマチックな真実の追求のような様相を見せるようになった
もう一つの政治倫理審査会は、ある議員が議員としてあらざるべき行動をしたのではないか
という疑いで、市民から条例に基づき政治倫理審査会の開催を求められたもので
この2つを傍聴して、フト感じたのは「怒りの沸点」ということ
2つの傍聴を通しての共通の感情は、問題となっている事件(対象)の杜撰さへの怒り
裁判は「知ってることは包み隠さず、嘘は言わない」と証人が宣言し
裁判長からも偽証罪に問われることがあるから気をつけるようにと諭されるわけだが
それでもやはりというか、先日の裁判では明らかに原告側と被告側の証言は異なった
原告側は、問題となっている件について被告側から相談を受けたと証言しているが
被告側はそんなことは全くしていないと証言した
この日は原告側証人が一人、被告側が二人で、相談の有無を否定したのは被告側の二人
嘘は言わないように、、とされているが、話が全く違うとされているので、普通に考えると
誰かが嘘を言っていることになる(あるいは記憶が飛んでしまっている、、)
まさかこの様な場で多数決による判断(相談はなかったという)はないだろうから
裁判官という人たちは、この様な時何をもって判断をするのだろうかと、、興味をもった
(話している人の表情、話しぶり、その他経験上の印象で判断するのだろうか、、)
もっとも、これらのことは想定・予想どおりの展開で、おかしいと思いながらも
それほど腹の立つことはなかった
ところが、その先の被告側証人の、その答弁のひどいこと、これには心底腹がたった
証言が嘘をいってると思われるから腹が立つのではなく、正直に話しているだろうと思われるその内容が
(市の事業の決済に関する段取りが)、あまりにも無責任極まりない
たった四人の組織のなかで、その課の重要な案件について組織内での共有ができていないとか
重要な報告書を一番の上司が見ていなかったり、最終的な決裁文書も記憶にないとか、、
これが、誰かをかばっているかどうかは別にして、他の証人との話とも食い違う点があり
いったいこの組織は何をどのように判断をしていったのか、市の大切な税金を使うというのに、、
このいい加減さはなんだ、、と
ステップは一応踏んでいる、しかしその実態は、こんなにいい加減で進められていたのか(証人の話を信じるとすると)
そんなことを思うと、怒りと同時に不安が湧き上がってきた
細かな事実を知っていくうちに、怒りを覚える様になったのは政治倫理審査会の傍聴でも同じ
新城市の今回の政治倫理審査会は公開で行われているので、しっかりその内容を確認できるのだが
まずは事実認定として様々なチェックが行われた
申請者の言い分を元に、他にも委員会の議員さんも手持ちの資料から想像されることをベースに
委員全員の共通認識を図るのに時間をかけられたのだが、この共通認識としての、事実があまりにもひどい
普通ならありえないことの連続だ
見積書の宛名が違う、見積書がFAXで送られたものを使用している、業者からの支払請求書がない
傷害保険の保証期間が事業が過ぎてからになっている、、などなど他にも呆れるくらい
これらを傍聴の席で見聞きすると、単純に怒りが目を覚ます
それは市がこの様な杜撰な書類で何もかも了解してしまったことに対する怒りではなく
何故、こんな杜撰な書類で通そうとしたのか、、、ということに対する怒りだ
市は対象となっている事業は善意の行動ということで最初から疑いの目をもって審査はしない
然るべき書類があれば、多少の不備はあっても、まあまあというところが現実と思われる
しかし今回はその様子がかなり違う
そこで感じられるのは(思い込みかもしれないが)悪意
市のアバウトな審査を前提とした、見つからないだろうとの意図で提出された書類
そのように感じられても仕方のないようなことの連続
「怒りの沸点」
裁判でも政治倫理審査会でも、目前行われる事実の羅列を知れば普通の人は
「怒り」を覚えるのではないか、、と思う
いくらのんびりした人でも、知らないうちにこのようなことが実際に行われていたとは、、と
知れば、腹を立てるに違いない(と思う)
知らない人は怒りを覚えない
でも知ってしまった人は怒りを覚える
怒りを覚えた人がその後どの様な行動をするかわからない
でも、少なくとも一旦その様な事実を知ってしまったからには
いろんな問題に対しておおらかに眺めるだけではダメだという意識が芽生える
怒りは、きっかけになる
怒りを推奨するわけではないが、普通の常識的な感情をもった人が
なにかおかしい、、と感じたものは、たいがい本当におかしい、、とされるが
自然発生的に生じた怒りは、、、多分、、同様に正しい反応で世の中にとっても必要な反応
と思えてしまうのだが、、、さて
ところで、裁判と政治倫理審査会の細かなことについては機会があれば、より具体的に取り上げるつもり
現時点では、いつものように思わせぶりに終始するが、、
それこそ怒りが沸点に達したら、洗いざらいに、、、ということになる、、、かな