昨日は母校の小学校の学習発表会
そして今日は「新城歌舞伎」を文化会館まで見に行って
この2日はまさに文化の秋、芸術の秋真っ盛りといったところ
学習発表会は無邪気にひたすら大きな声でセリフや歌を表現する1年生の可愛いこと
数年の差なのに一気に歌の表現力が増してくる4年生
シリアスな内容も自分のものとしているような6年生(演目は「裸足のゲン」)
あいさつ推進運動で近所の子どもたちと月曜と木曜の朝は校門まで歩いて行くことなっていて
気まぐれな子どもたちも気分が乗れば登校中は話に付き合ってくれる
名前も覚えたので、お誘いも受けたことだし、実はそんなも期待しないででかけた
ところがいい意味で期待はずれ、とても面白かった
何よりも見終わった後の印象が良い(6年生のは少し違うが)
心が疲れていないというか、ひねくれていないというか、とにかくまだ妙なものに染まっていない
そうしたところがダイレクトに感じられて、とても楽しかった
今日の歌舞伎は午前10時半から
知り合いからチケット購入を依頼されて、付き合ったものでそれほど期待したものではなかった
ところが、これも(今日も)とても面白かった
この地元の素人が行う歌舞伎は数年前も文化会館で見たことがある
忠臣蔵のいくつかの場面を取り上げていて、その時は忠臣蔵の物語はうまくできているものだ
と感心したものだった
本物の歌舞伎はバブル華やかなりし頃、招待で御園座で見たことがあった
演目は「俊寛」で比較的有名なものらしかったが、正直なところ少しも面白くなかった
最後の部分が感情過多の表現ぽくてついていけない気持ちが先に立って、劇団四季のプロの演技のほうが
伝統芸能にあぐらをかいている人たちよりはずっと良い、、、などと偉そうに思ったものだ
ところが、今日はひたすら面白かった
狂言の演目をアレンジした「棒しばり」
「本能寺の変」の後の明智光秀とお母さん、奥さん、息子、息子のお嫁さんの間で演じられる
悲劇の「絵本太閤記 尼ヶ崎閉居の場」
有名な口上が続く子どもたちによる「白波5人男 稲瀬川勢揃いの場」
常盤御前の自堕落な生活、一条大蔵卿のうつけぶりには深い意味があったとする「一条大蔵譚 塀外より御殿の場」
その一つ一つがとても新鮮だった
歌舞伎といえば祖母を思いだす
祖母は歌舞伎が好きだった
田舎の生まれで本格的なものを見たことはないだろうに、「出語り」が好きだと言っていた
「出語り」が何かはわからなかったが、舞台の横で三味線と一緒に歌ってる人だと勝手に解釈したが
なるほど、これがあるととても音楽的で気分がのる
フト、歌舞伎は西洋におけるオペラみたいなもので、結局のところ人間はところ変わっても
同じようなものを生み出すものだと頭に浮かんだ
祖母は歴史上の自分らがあまり知らない人物「熊谷直実」を知っていた
昔の人は歴史上の人物は歌舞伎で覚えたんだろうか、、と想像してみた
真面目に見るのは実質的に初めてなので、今日の演技や演出が良かったのか悪かったのかはわからない
ただ言えることは、演技とか演出は気にならずに物語に集中できたのは間違いない
物語は一直線に進むことはなく、押したり引いたり、多少矛盾点はあっても気にならなかった
フト、100年も前の人も、それよりももっと前の人もこれらの歌舞伎を同じように見たかも知れないことが
とても不思議な事に思えてきた
ろうそく・行灯の光しかない、冷暖房もない場所で、みんなが耳を澄まし目を凝らして湧き上がってくる感情に身を任す
そんなシーンが頭に浮かぶ
彼らはきっと今の自分と同じような感情を持ったに違いない、、
世の中の良いこと、悲しいこと、耐えなければならない運命、、
そうしたことは知らず知らずに歌舞伎の中で知って自分たちの生活に生かしていく
そして素直に湧き上がった感情は今で言う世論を形成していく
今のように格差も生き様も多様すぎる社会と比べて、こうした素直に感情に訴える物語を楽しんで享受していた昔は
実は意外と豊かな時代だったのではなかったか、、
豊かさとは一体なんだろう、、と少しばかり考えてしまう
今でも地道に地域の歌舞伎を保存・継承していく姿を評価すべきところだったかも知れないが
今日は、「歌舞伎そのもの」が気になってしまった
クラシック音楽の世界では演奏家の個性・比較よりも曲の方に関心がいく演奏は良い演奏と言われる
ということならば、今日のパフォーマンスはみんな良かったということになるのだろう
少なくとも自分にとっては、、