パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ポール最高傑作「RAM」を再現!とても楽しい「Pure Maccartney」

2013年05月13日 21時30分53秒 | ポール・マッカートニー

おまけのDVDのついたこのアルバムは、ポール・マッカートニーがビートルズ解散後につくった
2番目のアルバム「RAM」を、ほとんどそのままの曲順、演奏でカバーしたポールへのトリビュートアルバム
演奏はティム・クリステンセン 残念ながらこの人のことは知らなかった

知らなかったのに手に入れたのはほんの偶然
ポール・マッカートニーとラムとかなんとかでひっかかってきた
そしてこれが本当に楽しいアルバム

普段はDVDなんて見ない自分で、パソコンのDVDプレーヤーしかないのだが
今日はおまけの方から体験することに

最初のToo many peopleから本家のアルバムを彷彿とさせる

ライブ演奏なので勢いがある
それに人数も多く、ポールの一人多重録音のものより分厚い感じ
まずは良い掴みの1曲目

続いて3Legs
黒人ぽい音色の声と途中からリズムが変わって
一見へんてつもない曲が複雑な感じに
ライブの良さはあるけど本家のリズムの変化のほうが少し面白いかな

Ram On
イントロからまるっとコピーしている
そしてそれは嫌味というより微笑ましい
ポールの音楽に心酔して出来る限り忠実に再現しようとしているみたい

Dear Boy
この曲結構好きな部類
メロディアスな主旋律にからむ対旋律
その同時に聞こえる音楽的な瞬間の充実感
本家ではリンダの声がプロっぽくない感じで変と思ったこともあったけど
曲の進行の素晴らしさでそれもクリア
この演奏でもやはりこのからみ合いは面白い

次はメドレーで
Uncle Albert/Admiral Halsey
潜水艦の中のような効果音の部分もライブでもきっちり真似している
そして演奏者もとても気持ちよさそうな
声を張り上げての歌
思わずDVD見ながら自分も歌ってしまう
このところはビートルズのアビーロードの
Boy you gona carry that weightの合唱部分を思い出させる
音楽の楽しみ快感ここにありと言った感じ

Smile Away
Heart of The Country
Eat At Home
もライブ感に満ちた楽しい演奏

本家と順番が違っている
Monkberry Moon Delight
これには期待していたのだが
悪くはないけど、もう少し頑張って欲しかったな
この猥褻な歌(?)英語なのでたいして意味もわからず
音だけ聞いていると曲後半の繰り返しの
本家のアドリブがすごい(メロディアス)
そこまで真似するのか!と思ったけれど
さすがにそれはなかった
あれはポールにしか出来ないのかもしれない

Long Haired Lady
これはDear Boyと同じように旋律のからみ合いが楽しい

そしてRam 最後の曲
The Back Seat Of My Car
さすがに最後の曲と言った盛り上がり
皆声を張り上げて、、、ロックと言う範疇を超えたただ歌うことの
快感に満ちた音楽がそこにある

そしてこれらの演奏をしている人々の
ポール・マッカートニーに対する愛情・尊敬・共感が
体全体から感じられてなんか泣けそうになった

それにしてもこの元となったアルバム「RAM」
これはホント傑作で自分の中ではポールの一番出来のいい
そして才能がほとばしった作品ではないかと思う

いろんなことをやって、しかもメロディアス
音楽的にもクラシック的な対旋律の使い方
そして効果も、、

アビーロードの後の勢いがまだポールの中に残っていて
作り上げた本当に良いアルバムだ

そしてこの傑作アルバムを再現し、「Pure Maccartney」
と名付けた本当にポールの真髄を表現したこのCD(DVD)は
去年の発売だったらしいが何故話題にならなかったのだろう

本当に口を酸っぱくしても何度も言いたい
ポールの「RAM」は最高のアルバムで
「Pure Maccartney」は最高に楽しいトリビュートアルバムと



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新城市 亀山城址古城まつり

2013年05月12日 20時25分24秒 | 徒然なるままに

5月のこの時期は、空気が乾燥し
光がくっきりして若葉がより瑞々しく見えて
出不精な自分でもついつい出かけたくなる

今日は新城市作手の古城まつりに出かけた
古城とは 亀山城址
後の長篠城の城主となる奥平家の山城
詳しくはこちら

こんな穏やかな、のんびりしたところにその城はあった

昨日今日の古城まつりには、いろんなイベントが計画されていた
芝生公園では

奥平家に関する芝居が演じられた
奥平家を守るため人質として送られた可哀想な女性の話
いろんなところでこの手の話は存在する
途中で話の顛末の予想はついたけれど
昔のこと、仕方ないとはいえ、ちょっとなあ、、、

その後、太鼓の演奏

笛と太鼓の演奏

そしてメインの火縄銃の実演


新城市民としては長篠の戦い絡みのイベントで火縄銃はよく登場するが
実際に撃つ姿を見るのは初めて
案外モタモタせずに撃てるものだ
これなら信長が武田の騎馬軍を撃破したのもわかる

それにしても、こんな田舎にまで
あの時代も戦いが及んでいたのか
関係するのは家臣や武士だけで
ここに住む農民は影響はなかったのか
どうかは知らないが
人間の権力欲が引き起こす無益な戦いには
ホント何時の時代も迷惑なものだ

人間は集団になればその集団が効率的に活動するために
上下関係を伴った組織を自然発生的に作ってしまうものなのか
そして豪族と名付けられた人々は覇権を争うようになるのか
それが卑弥呼の時代も古事記の時代も、そして戦国時代も、、

そんなことも考えるとフト
少しオーバーかもしれないが
知らないうちに日本という国が
この奥平家の運命と同じ道を歩んでしまう
なんてことがないように願いたいものだ
と思ったりしてしまった

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言語と音楽

2013年05月11日 19時40分43秒 | あれこれ考えること

一月後に控えたドイツ・オーストリア旅行に備えて
急遽、ドイツ語勉強をしている
たった1.2ヶ月でなんとかなるとは思わないが
気休めのため、、、

そこでちょっと気づいたことが
ドイツ・オーストリア音楽が構成的なのは
ドイツ語がその言語自体がかなり理屈っぽい言語に
なっているからではないか!ということ

枠構造はブルックナーの音楽に通じそうだし
ベートーヴェンの主題の展開もドイツ語の
構成的な面に似ているような気がする

他の言語も考えてみると
フランス語はリエゾンで繋がって
何がないやらわからないまま
まるで勢いで流れていく
それでいて中身はかなり理屈っぽい

イタリア語は母音が多いせいか
はっきりしたリズミックな音
なるほどイタリア人がヴェルディの音楽を好むのは
分かる気がする

こんなふうに言語からイメージすることが
結構音楽につながっていそうだ

なら日本人は?
これがあまりにも当事者過ぎてわからない
アメリカ人のようになりたいと思っても
なりきれていない多くの音楽関係の人を見る

いったい日本人のアイデンティティってなんだろう
武満徹は個性的で独自の世界があっても
なんだか違うような気がするし、、、

話は急に変わって(いつものことだけれど)
今朝、目覚まし代わりのラジオ番組に
浪曲が流れていた
なんとはなしに聞いているとこれが結構面白い
面白いといっても聞き取れる話の内容ではなくて
伴奏の三味線の雄弁なこと
まるでヴォルフとかシューマンの伴奏みたいに
まとわりつくような、そして急き立てるような
これは今のラップにも通じそう

それが理由ではないけれども
日本の古い音楽は(邦楽・雅楽ではなく庶民の音楽)
古いから価値なしと考えるのではなくて
再評価したほうがいいのかもしれない
と思ったりする近頃だ

 

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速度と年齢

2013年05月09日 20時11分32秒 | あれこれ考えること

クラシック音楽に限らず演歌でもポップスでも
年齢を重ねると演奏の速度は遅くなる傾向があるようだ
音の中に感情を込めるのにはそれなりの早すぎないテンポが
必要なのかもしれないけれど
人間の生理的な時間の感じ方にもその理由があるのではないか

最近ジムに行って感じることは
ランニングマシン(ウォーキングマシン)の速度が
思いの外早く感じてしまうこと
以前はもっと速いスピードで走ってもついていけたのが
しばらくサボっていたとはいえ
そんなに歩く設定速度を上げなくても
やたらと早いものに感じてしまう

筋力の低下、神経の反応の低下、それが老化というものだろうけれど
速くしようとしてもついて行けそうにない自分がいる

音楽もそうなのではないか
年齢を重ねると
体が要求するテンポが昔と違っている
音楽の本質とは関係ないところで自分の感覚が
遅いスピードのほうを当たり前と思ってしまう

大きな音、速いスピード、それは若さの際立つ特徴なのではないのか
そこに深さよりは生理的な欲求に左右される感覚が存在するように
思えてならない

ということで、自分は少しづつ
ゆっくりしかできなくなってきている、いろんなことが!
昔短距離の選手だったということが
ちょっと自分でも信じられなくなってきているのは
少し寂しい



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テレビに映ってたよ(銀座でのインタビュー)

2013年05月07日 19時57分13秒 | あれこれ考えること

先日のラ・フォル・ジュルネで東京に行った3日
自分にとっての2番目のプログラムまでの間に
多少時間があったので銀座のアップルストアを目指して歩いていると
「ちょっと、インタビューにお答えいただけませんか?」
とTBSテレビのスタッフの方がマイクを向けてきた

「別に、いいですよ」
と答えてインタビューが始まった
最初はちょっとの間のことかな!と思ったが
いやいや割合質問は長く続いた

インタビューの内容は憲法のことがメイン
(そういえば、この日は憲法記念日だった)
ちょっと不安に思っていること、メディアについての不満
そして自分たちは面倒がらずに知ることに貪欲にならなければならない
他人任せの政治ばかりではダメだ
といったようなことを話したつもり

特にドキドキしたわけでもなく
どうせまた誰かにインタビューするだろうから
運が良ければ(?)使われるかな
くらいの感じでその場を離れ
インタビューをされた事自体忘れそうになった

そして日曜の午前
携帯に電話が入った
しばらく会うことのなくなった知り合いからだ
「久しぶりです」
何やら興奮気味の声で
「テレビ見た?どアップで映ってたよ」
「何?」
「さっきサンデーモーニングで〇〇ちゃんがインタビューみたいな感じで
 結構長いこと出てた」
「ああ、銀座のインタビューのこと?」
「そうか、向こうへ行っていたのか。こんなところに来るはずないし
 変だと思った。いやー、ビックリした。急に画面に出てきたもんで、、、」

電話を受けた時には終わっていたので
テレビを見る気にもならず
ちょっと残念かな
と思ったくらい

そして今日、GW開けで会社のスタッフに久しぶりに会うと
「テレビに出たんだって、、、」
「あれっ、見たの?」
「~~さんが見たって、結構長いこと映ってた、って」
視聴率の確率からすれば、会社の誰かが見ている可能性はあったけれど
自分がどんな風に写っているかわからないだけに
あまり実感が無い

で、本日の本題は
テレビ初登場のことではなく
一体どのように編集されたのか
ということのほうが、興味があったということ

今でも話した内容は覚えている(つもり)
しかし、そのままは絶対使われなかったに違いない
何故ならメディアに対する批判、要望も話したし
例のごとく話がTPPや原発まで逸れて話したし、、
しかし、本当はその部分のほうが自分が話たかった部分なのだけれど

それにしても案外ドキドキしないものだな
インタビュー当日も、放映されたことを知った日も

インタビューのあった3日は有楽町の交差点付近(?)で
猛烈な騒音がしていた
フルボリュームのマイクで誰かが喧嘩腰で何かいっている
高いところに街宣車が数台並んでいる
どうやら右翼と想像されるような人たちらしい
しかし声がでかすぎて、音が割れて何をいっているかわからない
とにかくやかましい、思わず耳をふさぐ
そして再び見上げると、アジっていないそこに立っている二人
なんだが笑っているように見えた
すると急に腹立たしく思えてきた
何かに必死になって訴えようとするなら
少しの辛抱は仕方ないか
とも思ったが、これでは単にストレス発散ではないのか
メッセージが届くとか、その内容がどうのこうの言う前に
大騒ぎしたかっただけなのか

しかし、法律範囲内とはいえ
下で警備している警官も多くいて
それがおとなしくしているものだから
なんだかとても不思議な光景に思えた

それにしても自分の心が動く事柄は
普通の人と違うのかな
とつくづく思う

それが、嫌でもなんでもないけれど



 

 

 

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今年のラ・フォル・ジュルネ(フォーレのレクイエム・サン=サーンスの3番)

2013年05月06日 19時22分19秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

二日目の4日は、以前にも聴いたことのあるメンバーによるフォーレのレクイエム

前回は「楽園へ」のところで気がついたら涙がにじみ出ていた
そしていつまでも続いて欲しい、曲が終わるのが残念で仕方なかった

そして期待を込めた今回は最初に、
聞いたことのない作曲家デュリュフレによる無伴奏のグレゴリア聖歌による4つのモテット

音楽が始まると合唱(多分女性の声)の精妙さにビックリした
「ヨーロッパの音」この言葉が最初に浮かんだ
まだ大人になりきっていない世代の人間が出すことができる声を
既に沢山の経験をして、いいことも悪いことも知っている大人が
あのような澄んだ純粋な音を出すことに感動した
そこにはどれだけの才能と訓練があったことだろう

耳慣らしの10分ほどが過ぎてメインのフォーレ
このレクイエムは今回で3回目
最初はこの地で、2回目は名古屋でスウェーデン放送合唱団によるもの
いずれも静かな感動を得たが、それは今回も同じだった

そしてまたもや「楽園へ」になると
感動のあまりではなく、知らないうちに両目から熱いものが
にじみ出ていた

だが残念なことに余韻に浸っている時間はなかった
次に控えているのはメシアンの「アーメンの幻影」
会場の移動まであまり時間がない
それで拍手もほどほどに会場を後にした
本当はもう少し幸せな時間を満喫したかったな

最後に聞いたのはオーケストラ曲の「魔法使いの弟子」とサン=サーンスの「交響曲第3番 オルガン付き」

実はこのプログラムの前、屋台村で昼食とビールを口にしたもんだから
ちゃんと聴いていられるか?
と心配だったが、予想はぴったし、至極幸せな夢の中を味わうことになった
音楽は聴いているような遠くで響いているような、、
これも音楽の楽しみ方の一つかな
と思うことにして、今年のラ・フォル・ジュルネは全て終了

それにしても、今回のハイライトはやっぱり
「児玉麻里・桃 メシアンのアーメンの幻影」
とにかく音が詰まっている
技巧だけでない何かが、自分たちの時代の感じる気分を反映する音楽
多分二度と生では聴くことのない曲
この演奏会だけでも今年東京に来た甲斐があった

※このアーメンの幻影については先日のブログにアップ済み

 

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東京の女の子

2013年05月06日 19時04分03秒 | 徒然なるままに

京都に行けば、そこで見かける人の瞼が二重か
どうかをチェックする自分だが
先日の東京への旅は知らず知らず女の子の服装を
見てしまった

正確に言えば、
見てしまったと言うより、
以前受けた印象との違いに少し驚いた

一言で言えば、随分普通にオシャレになってきた
洗練されてきた感じがした
もっとも自分はファション関係の人間でも何でもないし
この印象が正当なものかどうかは定かではないが
とにかく自分はそう感じた

以前はテレビで見かけるような派手っぽい
インテリジェンスに欠ける、しかしある時期にしか着られない服装と
茶髪、ルーズソックスが多かった
しかし、今回はホント普通の感じ
しかし、どこか趣味の良いところが垣間見られた

フランスはファッションの国というが
昔パリに行った時、白のブラウスに紺のスカート
と言う女性が多くて、そしてそれが品が良くて格好良かった事を
思い出した

日本も過激なファッションの時を経験して洗練に向かったのだろうか

もっとも自分が見た女の子は東京駅の周り
ラ・フォル・ジュルネに来た女の子なので
これが別の町中だったら違う印象を持ったかもしれない

いずれにせよ、普通の洗練に向かう傾向は
オジサン世代には好ましく思えるのだが、、、
単なる思い込みか?

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へそ曲がりの「国民栄誉賞」報道雑感

2013年05月06日 07時50分25秒 | あれこれ考えること

野球を見なくなって随分経つ
自分らの時代はスポーツといえばプロ野球だった
そして例外に漏れず、ミスターと言われるあの人に
畏敬の念を持ったものだ

だが、あるときから全然見なくなった
テレビで見る日本の野球ののんびりしたリズムについていけなくなった
打たないことにはゲームが進まないし
ランナーが出れば牽制球が度々、そこで時間ばかりかかってしまうし
敬遠することにしているのもかかわらず、4球投じるフォアボールというルールも
なんかよく理解し難い
もっとも野球好きの人には、こうした休みの時間の多いスポーツの
意図の読み合いが面白いというが、、、

昨日から今朝のテレビ、新聞は長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の
国民栄誉賞の受賞イベントの話題で持ちきり

野球から離れたへそ曲がりのひとりとして
少し違和感を感じたことを少し

まず松井秀喜氏はいみじくも自分が口外したように
王さんのようにホームランでずば抜けた成績を納めたわけでもないし
衣笠さんのように連続試合出場の鉄人のような記録を残したわけではない
野球から離れた人から見ると、何を残したのか?
と思ってしまうので、人気のある無しは横においておいて
一体何を評価したのかと思う

もっともこの人の人格は本当に素晴らしいと思う
それは感謝のスピーチやらアドリブの会話にも現れている

一方長嶋さん
天性の屈託ないエンターテイナーぶりとここぞという時の勝負強さ
多くの人は展覧試合でのホームランをその例に上げるが
自分は高校時代の野球部の同級生から聞いた
「王さんがデッドボールを受けて退場しあわや乱闘になりそうな状況のあと
ホームランをかっ飛ばして本当にかっこよかった」
というエピソードを思い出す

つまり、人物に関しては何ら問題はないと思う
長嶋さんにはそのタイムイングが、松井さんにはその評価軸が
多少問題があったとしても、結局受賞については
外野の自分でもそんなものかなと思わないこともない
問題は、その騒ぎ方

日本の国民栄誉賞と言いながら
巨人軍という形で全面的に出ていたこと
果たして大阪の阪神ファンはこのセレモニーをどんな風に感じたのか
これだけ大騒ぎ、支持されているのだから国民全体が
盛り上がっているに違いない
と感じる報道の姿への違和感

つまり、これは日本全体と言うよりは関東の部分的な
盛り上がりにすぎないのではないかということ
関東の盛り上がり、それは純粋に関東を出身地とする人ではなくて
むしろ地方出身者の東京人になりたい人たちの
知らず知らずのうちの仲間はずれにならないための
共感なのではないかと思ってしまう

おらがチームがない地域のひとは
都会の皆が好きなチームのファンになることによって
都会人となったような錯覚をする
そしてそれで安心をする

こうした意味合いではサッカーのJリーグのほうが
おらがチームの共感を得やすいシステムになっているではないか
そしてサッカーなら日本代表での評価があるので
例えばこうしたセレモニーがあってもユニフォームは日本代表のものが使われるだろう

そして一番の違和感は安倍さんのはしゃぎぶり
安倍さんも巨人のユニフォームを着ている
日本代表のユニフォームではない
そしてそれを変ともなんとも思わないところに
関東の人の感覚の傲慢さ(ズレ)を感じてしまう

今の安倍さんは前回と違って
今のところ運がついてまわっているようだ
しかし、この矢継ぎ早に進める一見決断力のあるような
政治に何かしらの不安を感じてしまうのは何故だろう

人口だけを問題とすれば関東の話題が日本全体の話題
と言っても間違いはないように思える
しかし、そのテンションの高い関東で判断されることが
正しい判断かと言えば、なにか一方的すぎて違うような気がする

アメリカのニューヨークとワシントンのように
地理的にも分かれて政治と経済を運営すべきのような気もする

またまた話がそれたが(毎度のこと)
今回の国民栄誉賞は
関東の巨人軍の大騒ぎが、なぜか日本全体の喜びとなってしまっていて
それに違和感を感じない政治家が悪乗りしている
と言った感じがしてならない

ところで、ホント自分はへそ曲がりだな
偏見と独断がいっぱいで!

でも長嶋さんは無条件に好きだな

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今年のラ・フォル・ジュルネ(フランクのソナタ・ドビッシーのオーケストラ曲・仲道郁代)

2013年05月05日 16時56分01秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昼ごはんを屋台村で軽く済ませて臨んだのが、よみうりホールでの竹澤恭子のヴァイオリンの演奏

演奏者ではなく曲でこのプログラムを選んだ
お目当てはフランクのソナタ

この瞑想的な音楽、美しいというのとはどこか違うけど
とても心に染み入る
以前のラ・フォル・ジュルネでデュメイで聴いたときも
名古屋でチョン・キョンファで聴いた時もとても良かった
特に3楽章のほんと夢見心地になる瞬間
生演奏のエッセンスはフォルテシモの盛り上がりではなく
ピアニシモの集中にあるのではないかと思ったりする

演奏はサン=サーンスのハバネラから
あれっ、少し違和感を感じたのがピアノの音
音が小さいというかスケール感、大きさがない
気のせいかと思いつつ聴いても最初の印象が気になって
どうも楽しむことは出来ず1曲が済んでしまった

2曲めの「死の舞踏」
これは良かった
竹澤恭子のまるで舞踏するかのように体を大きく動かして
ピアノも先程よりずっと曲に共感しているようで
盛り上がりもあってやっと調子が出てきた感じ
隣の席で「竹澤恭子、凄い!」
という声が聞こえた
さてフランク、集中して耳をすませた
最初のヴァイオリンの入り方、メロディーをフワッフワッと奏でる
なるほどこの人はそうなんだと納得

音楽というのは楽譜があってもそこに音があるわけではない
必ず演奏者の介在が必要となり
その音楽の内容・意味合い・良し悪しは演奏者に左右される
だからこの人の演奏がこうなんだと思ったわけだが

音楽は気持ちが盛り上がるとフォルテになったり
テンポが早くなりがちになると思うけれど
この演奏はピアノが自らを盛り上げようとフォルテしているように
感じられて仕方なかった
期待した3楽章のあの瞬間はまずまず、もっとうまく出来るのでは
と思わないでもなかったが
でも4楽章になっての音色の変化はそれなりで
全体としてはこんなもんかな!
という感じ

夕方、国際フォーラムで行われたオーケストラ曲のプログラムが2つ目

少しばかり通俗的な組み合わせで期待薄だったが
それに反してこれは良かった
サティーのジムノペディは頻繁に耳にするような印象があって
軽音楽の部類かなと思っていたが
いざオーケストラで聴くと非常に繊細な音楽なんだと印象を新たにした
そして繊細だけに、音楽を展開するといった方向に進まなかったのは
理解できると自分勝手に納得したりした

ドビッシーの牧神の午後と海
確かにドイツ・オーストリアとは異なる語法で
音楽が進んでいく
そして自分たちの国の音楽という体に沁み込んだ
演奏ぶりで音色も豊か
管楽器が活躍するがけっしてロシア音楽のように裸で響くわけじゃない
ちょっと洗練されたところがある

どんな人にもその人らしいメロディーとか和音、リズムがあるけれど
海のドビッシーも全曲を統一するためかどうかは知らないが
時折、特長あるメロディーが流れる
ただ、こうして響き中心に音楽を展開していったドビッシーが
最後に前後関係、展開に形式的なソナタを書こうとしたのは何となく分かる気がする

ところで海の最初の楽章
夜の海だったかと解説にあるのを読んだことがあるが
確かにこの演奏会はそんな感じがした

それにしても、このオーケストラは自国の音楽には素晴らしい演奏をするようだ
指揮者も日本人やドイツ人がするのとは違う音を出していた(ような気がする)

この日最後は仲道郁代のピアノ独奏
ドビッシーを中心に三善晃・武満徹も混ぜて不思議なプログラム
同じよみうりホールでも最初のフランクの時のピアノとは大分違う音がする
柔らかいまろやかな音色
月の光・アラベスクなどドビッシーがドビッシーでない時の
メロディアスな曲の演奏は芳醇なワインのようだった

三善晃は刺激的な音楽
だが、この曲を聞きながら考えたことといえば
作曲者はこの曲が演奏されることをどのくらい想像したか
ということ
楽譜はあっても演奏されない
そんなことがずっとありはしなかったか
余計なお世話だが、現代作曲家の不幸を想像してしまった
武満徹はやっぱり彼独自の音世界がある
でも、自分は無条件に好きというわけでもないかな

いろいろ聴いた中で面白かったのが
喜びの島
ドビッシーの熱心な聴き手ではないのでこの曲は知らなかったが
何となくスクリャービンをも思わせるような気がして
なるほど、こうして音楽は引き継いでいくのか
と思ったりした

ということで、音楽素人の勝手な思い込みによる感想を3つ
果たしてこれらに一般性はあるのか
どうなんでしょうね?


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東京散策(2)

2013年05月05日 14時07分36秒 | 徒然なるままに

二日目の最初のコンサートも11時過ぎから
ホテルでのんびりしてもいいけれど
せっかく来たのだからと皇居の周りをゆっくり歩く

天気が良くて新緑が気持ち良かった
この二重橋の撮影ポイントでは
あちこちで中国語?台湾語?が聞こえた

自分も人並みに数枚のカットを撮影
しかし、橋の向こうに立っている警備の人は
少しも動いている様子はない
あれはあれで大変な仕事なんだろうな
と気の毒に思ったりしたが
これはイギリスの憲兵さんでもずっと動かずにいるのだろうか

二重橋に向かって少し高くなっていて、振り返ると東京駅方面の
高層ビルが見える
京都御所も広いと思ったが、皇居(江戸城)も半端じゃない広さと実感
この膨大な広さは実用的な面で必要と言うよりは
将軍の権威を見せつけるためにこれだけの面積を必要としたのではないか
と思ったりした

将軍や大名、あるいは皇族も一段高いところに座ったりして
明らかに一般とは違うという認識を他人に強いる
人間、そのくらいのことをしないとみんな平等と思ったりするかも
位、座る位置、服の色、、、
そうやって無理やり区別してきたんだろうな

この広さについてあれこれ思っているうちに
急にむかし訪れたシェーンブルン宮殿のことを思い出した
正確に言えばシェーンブルン宮殿で感じたことを思い出した
それは、「人間は限りない欲望を持ってしまうかもしれない」
ということ
あの広い庭園を歩いている時不意に
これだけの庭園を造れと命令し、その通りに実現してしまう力を
一旦持ってしまえば、その優越感とか支配欲は一種の快感を
持つのかもしれないということ

それは下々が想像するよりも
もっと強烈なものになってしまうかもしれない
つまり一度経験したものでなければ分からない感覚なのかもしれないし
それだけに危険な気がしたのだった

しかし、実際この国は誰が支配しているのだろう
誰も支配していないようにも思える
ただ無目的に資本の増大を図る何かが
様々な正当な理由をつけて必要以上に人々を鼓舞しているように見えたりする
世の中は残念ながら明晰な世界ではない
それは仕方ないとしても、できる事ならもう少し妙なものに縛られない
当たり前の世界であって欲しいと思ったりする

この日最初のコンサートはフォーレのレクイエム
その感想は、また別に!

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