パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

とりあえず復活、議会改革検討会議の傍聴

2017年05月18日 18時31分54秒 | 市政、市議会に関することなど

前回は根性なく途中リタイアした新城市の議会改革検討会議
今日(5/18)はちょっとした使命感と、議員さんに緊張感を持ってもらうために出かけた

しかし、これが長かった
始まったのは9時で終わったのは13時半過ぎ
途中で一度僅かな休憩を挟んだだけ

さすがにこれだけ長いと不機嫌になる議員さんもいた
後半の集中力は、大事な事が議論されているにもかかわらず
どこか投げやりな部分が見られたような気がしたが、
これは少しばかり仕方ないかもしれない
しかし肝心なことなら、時間とかスケジュール関係なく緻密な話し合いをすべきだったし
一気にその部分を検討する予定自体が甘かったのでは
(もう少し誰かさんの議事運営が上手なら時間短縮は出来たような気がしないでもない)

傍聴しているこちらの身もきつかったが、
あまりにもイライラを表に出しすぎる前回不謹慎な発言をした議員さんの態度は
少しばかり大人げないし、恥ずかしいといえるのでは!
(もうひとりイラツイている議員さんがいたが、それでも議論に関与しようとする気持ちは見られた)
※この二人は、分かる人にはわかると思いますが、、

この日の細かな内容は例のごとく白井市議のブログにアップされるだろうから
ここではお気楽な感想ということに

今回は議会条例の条文の訂正とか追加について
その4章部分(市民と議会の関係)で
いきなり条例を検討しても上手く進まないので
副委員長である白井市議がたたき台のような案をつくり
それを元に話し合うという形で進められることになった
当然、その白井案は事前にメンバーに配られて読んで各自検討されているべきと思われたが
どうもその宿題をやってきていない議員さんがいたようだ(傍聴席からはそう見えた)

ただ今日はあの討論内容がわかりにくいワークショップ形式ではなく
通常の討論形式で全体の内容が分かりやすかったのは良かった

4章の市民と議会の関係は、実は重要な問題で
時間が来たからとかあとが詰まっているからと言った感じで進められたくなかったが
市民の声を聞く機会としての議会報告会とか積極的な参加の意味合いでは市民議会、
市民懇談会などの議会モニター制度などが提案され、条文の書き込みの提案がなされた
しかし、ここでメンバーのこの会議というか議会基本条例の解釈についての共通認識が
それぞれ違っていることが感じ取れた
議会基本条例は基本であり目指す高みであり、細かなことまで書き込むことはそぐわない
というものと、敢えて書き込む事によって次の時代の議員さんにも、また市民にも
わかりやすいものとなる、、、という立場
これはどちらとも言い分があって、個人的にはそれほどこちらでなければ、、、
という思いはなかったが、もっと気になったのは「市民」という概念
概念という言葉が大げさなら「市民」という抽象的な存在に対する捉え方・考え方があまりにも
現実を反映していないのではないかという点

現在のように地方分権が進んできた社会では市民は議員お任せではなく
主体的に民主主義を推し進めていかなければならない
多くの市民が目覚めて関心をもって議員とが協力して政策提言をできるように
ならなければならない、、、
これがあるべき市民像のイメージとして(前提として)考えられている
しかし、最近のようにサラリーマン世帯が多くなっていると
以前の地域のコミュニティはその力を失い、必要な情報も(特に男性は)手にしづらくなる
その結果、地域に関する関心も残念ながら大きくない
その証拠が最近行われたばかりの「議会報告会」の傍聴者の数だ

正直、議会報告会にわざわざ関心をもって来た人は多くない
関心をもってもらうべきとか、関心を市民自身が持たねば、、、といくら声をあげたところで
市民自身がそのレベルに達していないのが現実だ
圧倒的な当事者意識(ATI)をもって市民が自らの問題として考えるには、
将来そうあるべきだとしても、とにかく現在はそれを望むべくもない

議員は地域・利益の代理ではなく、市民の代表として存在すべきだとはよく言われる
しかし、議会報告会などで出て来る意見を思うと、住民が議員さんに望んでいることは
地域の代理機能の要素がたくさんある
地域の人は議員さんに苦情や陳情を聞いてほしいし、解決して欲しいと思っている
確かにそれがすべてとは思わないが、このメンタリティが大きいのは事実で
だからこそ各地区で支援する議員さんが当たり前のように存在する

抽象的な「市民」
それを性善説をもって見るか、少し変わり者が存在する団体と見るか
理性的な存在と見るか、感情的な存在と見るか、
それら「市民」に対するイメージが議員さんの間で各自バラバラで
それぞれが自分のイメージする「市民」を前提に議論を進めるからどうしても
噛み合わないところが出てくる

正直なところ、この議会改革検討会議は
進むべき方向のプロの視点からの提案だけでなく、(Sさん勉強ぶりと真面目さはわかるけれど)
身にしみて感じている現実を見据えた認識のもとに進めないと、議員さんの間で
何かやってる、、、に過ぎないものとなってしまいそうな気がする

議会改革検討会議の多分最初の方の会で
議会改革の進展は、市民生活に落とし込まれて初めて評価される
と言ったようなことがあげられたが、市民生活にリアルに感じられるような何か
それがどうも、いつまで経っても欠けているような気がしてならない
(でも今日は、長い時間頑張ってくれた議員さんには、ご苦労様と言うべきかな)

ところで、今日の傍聴議員は下江市議だけ
依然として一度も顔を見せないのはY議員
こんなんで議員間の共通認識を図れるのだろうか、ちょっと心配

また将来、市民の声としてパブリックコメントを求められることになっているが
市民はこんな抽象的な問題にまともにパブリックコメントを発することができるのか
これも少し心配、
それにしても、疲れた、、、

 

 

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何故か好きな絵(ミロ)

2017年05月17日 08時24分48秒 | 徒然なるままに

理由はよくわからないが、なんとなく好きな絵がある
それは自分の部屋に随分長いこと飾ってある

ミロの版画だ
といっても本物ではなく印刷物
額の価格を入れても大した金額になってはいない
でも、好きだ、、無条件に

何を表現しているか、どんな意味があるかわからない
でも、なんとなく心地よい

昔、豊橋にあった西武百貨店、そこで偶然見かけたのが
それまで全然知識のなかったミロの絵(版画)
多分販売会か何かで、たくさんの絵・版画が展示されていたが
その中に小さな落書きのような絵(版画)があった
それを見た時の記憶は今でも鮮明に覚えている
その絵から立ち上る優しさとか温かさ、、、
(もしかしたら愛というもの、、かもしれない)
絵にオーラと言うものがあるとしたら、それはまさしくそういうものだった
(どんな絵柄だったかは覚えていないが、その時の印象だけは忘れられない) 

そこで覚えておこう!としたのが「ミロ」という名前
以後、目に入るようになった「ミロ」という文字
それで豊橋とか岡崎とか名古屋とか、「ミロ」の作品展には出かけるようにしている
そこで感じることは、いつもよく似ている
無邪気とか、子供っぽいとか、いたずらっぽいとか

その感じ方が一般的かどうかはわからない
ただ、自分はそう感じて、無条件に受け入れていけている

以前は、本物のミロの版画を手に入れよう
と思ったりしたが、今は少し諦め気味で
この絵で我慢することにしよう、、

スペインのバルセロナ
そこに行くことはどうもなさそうだが、もし行けたら
ガウディーが主役ではなく、ミロの博物館を見に行ってみたい
それが見果てぬ夢、、 




 

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「奔馬」の中で扱われた、フルトヴェングラーの音楽のこと

2017年05月15日 08時24分27秒 | 

GWにはヴァーグナーの4部作ではなくて、日本の作家の4部作を読もうとした
「春の雪」「奔馬」『暁の寺」「天人五衰」と続く三島由紀夫の「豊饒の海」だ
波長が合う作家ではないので結構苦労しているが、現在は2作目の「奔馬」
(ここに来てこれから先読み終えられるか疑問になってきたが)
その中で、本筋とはまったく関係のないエピソード(文章)に出会った

それは作品中の登場人物がレコードを聴くシーン
時代は昭和の戦前の話で、もちろん今のような環境ではない
いわゆるSPレコードの類を聴くこととなったが
ポリドール・レコードでリヒャルト・シュトラウスの「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を
フルトヴェングラーが指揮したものを聴くシーンだ

ここになかなか興味深い描写がある

このレコードは久しく聴かれなかった。そこで愉しい音楽を聴こうと思われた宮は、
冒頭に弱音のホルンで吹かれるティルの主題を耳にするや否や、自分はレコードの選び方を
まちがえた、今自分が聴きたいと思った音楽はこれではない、という感じを即座に持たれた。
それは陽気な悪戯気たっぷりなティルではなくて、フルトヴェングラーが拵(こしらえ)た、淋しい
孤独な、意識の底まで水晶のように透いて見えるティルだったからである。

相変わらず饒舌な描写と思われるが、それでも、なかなか直感的な本質はついているような
気がしないではない
フルトヴェングラーの醸し出す音・音楽は、そのように感じても仕方のない幻想を導き出す

毎年ノーベル賞候補にあがる村上春樹氏の小説にも多くの音楽のことが取り上げられる
自分が「1Q84」を読もうとしたのは冒頭にヤナーチェクの「シンフォニエッタ」のことが
取り上げられていたからで、「利口な女狐の物語」を聴いて以来、ヤナーチェクは無関心で
いられない作曲家となっていた
それで、このシンフォニエッタがどのように描写されているかを読んだはずだが
例のごとく忘れてしまっている 
その他にも「1Q84」には多くの音楽が登場したが、多く登場したという印象しか残っていない

そして最近作「騎士団長殺し」はモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」が扱われているようだが
今のところ触手は伸びない
どうも相性が良くないみたいようだ

話は「奔馬」の三島由紀夫に戻って、やはり何かを感じる人は、何かを感じとるのだろう
フルトヴェングラーの音は実際、何かが違う
それが何かは、言葉で表せるものかどうかわからない
ただ何かと違う、、という感じだけが残る

この「奔馬」はどうにも理解できない思い込みや、一方的な美意識に全体が支配されていて
いつまで経っても共感できないものとなっているが、この音楽に関する一文だけは納得できる 

と、文句を言いつつも
「春の雪」で舞台となった月修院のモデルとなった奈良の「圓照寺」とか
「奔馬」で取り上げられた「率川神社」には機会を見つけて
一度行ってみたいと思ったりする、、

行きたい場所とか、読みたい本、聴きたい音楽とは、
こんな風に連想のリレーで 次々に現れてくるものだ
(そのうち忘れてしまうかもしれないが、、、) 

 



 

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ジークフリート(予習)

2017年05月13日 19時11分21秒 | 音楽

「予習」よりは「復習」の方が実りが多い経験をもつ自分だが
それでもつい引っ張り出して「予習」してしまったのが
 

ジークフリート
6月の新国立劇場の出し物だ(自分は6月7日に行く予定)

カラヤン指揮のレコード盤のもの
昔は高くて購入できなかったものを中古レコードで破格値で手にした
レコードの良いところは音が分厚いだけでなく、解説書の文字が大きいこと
この解説書ならセリフを追って聞くことができる

ジークフリートの音楽でいつも思うのは鍛冶屋の音形・音楽が
トールキンの指輪物語で気味悪い連中が武器をつくっているシーンを連想させること
ヴァーグナーの描写力は魔術的だ
(魔の火の音楽 や眠りに陥る時の音楽はすごい)

で、ジークフリートを聴いていたら「ラインの黄金」のことを思い出した
「ラインの黄金」はつまらない物語・音楽 と思いきや、
自分は案外気に入っている
ワルキューレよりもラインの黄金のほうがライトモチーフが活躍しているようで
雄弁な気がして(ワルキューレより華はないけど) 

予習は始まったばかり、あまり予習しすぎると実演が
「おさらいとか確認作業」になってしまいそうだから、
耳慣らし程度に納めるほうがいいかもしれない

飯守泰次郎氏のニーベルングの指環、秋には「神々の黄昏」が上演される
田舎の住人で、まさか指環を全部見ることはないと思っていたが
ここまで来たからには、最後まで見る(聴く)つもり、、、

ところで近場の名古屋では、6月11日に演奏会形式の「ワルキューレ」がある
これも「ジークフリート」「神々の黄昏」と続く計画らしい
ここ1・2年はヴァーグナーがマイブームとなっている
(でも好きなのはモーツァルトとブルックナー、あとベートーヴェン)
 

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森友学園騒動と似ている新城の出来事

2017年05月10日 09時20分57秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

世の中には似たような出来事・事件があちこちで起こっている
それは自分の住む新城市においても見られるが
そのひとつに森友学園騒動に似た事柄がある

森友学園には新聞・テレビなどの報道で知られているとおり
普通では考えられない例外的措置・親切な対応・迅速な進展などがあった

その不自然な成り行きによく似ているのが、新城市の新庁舎建設に関する
土地の移転補償費とその後の経過のこと
このうちの移転補償費の問題については、通常は補償対象とならないと判断されるべき物件に
多額の税金が支払われていること(例外的な認定判断)に関して行政訴訟が行われており
現在その裁判は進行中だ(新聞各社の裁判の記事
ここまでのことは、新聞をこまめに読む人はなんとなく知っている事柄だが
ここから先のことは、ちょっとばかり週刊誌的な情報となる

この例外的に移転補償費が支払われた場所には、現在新しく家が建てられている
ところが、この家は普通なら新しく建てられない場所にあった
現実には補償費をもらって長屋の一部を解体し、建て直しを計画したのだが
新しく建てるための条件がクリアできないことがあった
それは「接道義務」に関することで、接道義務とは
「建築物の敷地は、幅員4m以上の道路に2m以上接しなければならない」
(建築基準法第43条1項)
つまりは新しく家を建てる場合は、消防車等が機能的に活動できるような
幅の広い道に接していなければならないということだ
ところが、新たに建て直そうとして時、その場所には広い(4メートル以上の)道はなかった
だから建て直せないこととなる

そこで諦めて別の場所に建て直すということなら問題はないのだが、この場合は違った
なんと、その場所に接する幅8.02メートルの道(市道)をつくるように、突如市長から市議会に提案された
東入船3号線(仮称)と名づけられたその道は、実は簡単に道を広げることが出来ないものだった
というのは 東入船3号線(仮称)の一部には、その地域に長らく住まわれた歳を召した方がいて
道を広げるには、その方たちに立ち退いて貰わなければならない
その人達の住む場所は新庁舎建設用地に属していたが、歳とってから住まう場所を変わるなどの
大変さを鑑み、一代に限って立ち退きなどを要求しない  という約束が市と出来ていたのだ
(これは何故か口頭だけで、文書化を要求したらH氏は怒り出したそうだ)
それでも何故か条例案として提出された
結果的には、議会が 東入船3号線(仮称)を認めず、この話はご破算となった

話はそれで終わらない
この建て直したい土地の南側には空き地があった(土地は広くない道に接していた)
この場所に建て直したい方は、名古屋に住むこの土地の持ち主に
土地購入の交渉に出かけることになった
ところが、ここで森友学園の例と似ているのだが、親切にも市の職員が同行して話を進めた
その結果、土地を購入することとなったが、その土地の南は道に面しているとは言え
また道幅が足りなかった

すると、今度は道の拡幅が急遽行われることとなった
道路の拡幅のような依頼は行政は実行するまでに時間がかかる
出来ない理由をあれこれ述べて、なかなか前に進まないのが普通だが
(現実に自分が区のある役をしていた時に、実感したことがあった)
それが何故か相当なテンポ感をもって、あれよあれよと言う間に拡幅された

この話には、まだまだおまけがある
普通は道を拡幅する場合道の中央から両者が後ろに下がることになるが
この場合は土地の持ち主の方は自分の土地を削ることなく
市側の所有する土地の方だけが下がって処理された

これらの出来事を時系列に並べていくと、特定のある人物に対してとても配慮が
なされていると判断されても仕方ないことがわかる
それは例外的措置・親切な対応・迅速な進展の三点セットだ

これらは週刊誌的な情報と但し書きをしたが
大半のことがらは加藤市議の市議会における一般質問で公にされている
ただ、その質問は専門的な知識を要するために普通の人にはわかりにくい
と思われたので、ここではできるだけわかりやすい説明となるように努めた

こうした経緯でいったい誰が悪いのか、、、といったことは
森友学園と同様にわかりにくい
しかし、はっきりとしていることは、やっぱり普通じゃないことが
知らないうちに行われていた
市の税金がよくわからない使われ方をしてるということ

普通じゃないことの裏には、なにかがある、、、
とついつい考えてしまうのが人間
それは少しばかり悲しい考え方・感じ方になってしまっている

ところで、この話にはもう一つおまけがある
それは税金に関することで
「土地収用法」と「公有地の拡大の推進に関する法律」の併用による
節税テクニックが上手になされている
この問題も加藤市議が一般質問を行っているが、多分素人の人はわかりにくい

とにかく、知らないところでいろいろ何かが進められていたということだ
もっとも、言い分はいろいろあるだろうけど、
あまりにも例外が多いと勘ぐってしまうのは無理ないと思う

裁判のきっかけも、たまたま偶然に法に詳しい人が
奇妙な黒塗りの書類を見つけたことから始まる
知らないところで知らないうちに、、、
これには気をつけないといけない
気づいた人、その立場にいる人、、そういう人は頑張らねば、、、




 

 

 

 

 

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リタイア(議会改革検討会議)

2017年05月09日 12時31分25秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

やっと肝心なところ(条文の訂正・追加など)の議論に入った
昨日(5/8)の新城市の議会改革検討会議

とうとう傍聴のリタイア(途中棄権)してしまった
得るものも、感想を述べる情報もなかったし、現場での熱意も一部の人を除いてなかった
これ以上傍聴していても意味はない!と判断し切り上げた

もっとも最初はそんなつもりではなかった
条文の訂正・追加ということで現在の「議会条例」をプリントして持参し
どのように変更されるのか、、、をチェックするとつもりでいた

今回も5人づつの2チームに別れてワークショップ形式で
やる気のある議員から出された訂正案(赤い文字で書かれた)を
それぞれ検討するという形で行われた
(当日は長田議員が欠席 傍聴議員は下江・打桐議員)

前回ここで取り上げたが、このワークショップ形式は傍聴席の近くの机で
行われるのは聞こえるが、遠い方の机は何が話されているかわからない
おまけに、赤い字で検討用に追加された案は議員さんたちには各自配られているが
こちら傍聴者の手元にはない
それを知ろうとするには、全面に映し出されたパワーポイントの文字を追うしかない
ところが、遠くから見ることになるその文字は、目がしょぼいことになりつつある身には
よく見えない

結局、何が話されているかわからないし、検討案もわからない
つまり肝心なことは何もわからないということだ
そこで敢えて傍聴している意味を見つけ出すというのなら
ワークショップしている議員さんの熱心さのチェックということになるかもしれない
だがそれはひと目で分かることで、前回も今回も本当にやる気のない人物はいた
(それは多分誰が見ても同じように感じたに違いない)
そしてこの人物は会議が始まる前にある場所で
「ワークショップでやるなどと馬鹿馬鹿しいことをするなら帰るぞ!」
などと大声で怒鳴っていた
(誰がどこで何を聞いているか  注意力不足ですぞMさん)

とうことで、傍聴する意味はほとんど存在しないと考えた
もっとも最後のまとめのシーンを見れば、それなりに価値はあったかもしれないが
今回はそこまで我慢できる気分にはなれなかった

それにしても傍聴者にある時は資料を配っていただけたり、
ある時は何事も無かったかのように無視されたり、、
勉強会のときには傍聴者に対する応対も話されたはずだが
その進めるべき方向は 結局反映されなかった(何を勉強したのか?)

ところで、この議会改革検討会議が本当に必要なものであって
議員さん全員が共通の認識を持って今後をむかえるようなもにできるかは大いに疑問だった
現に検討会議のメンバーからも今後の進め方について、当初決めたとおりの検討会議メンバーで
たたき台も含めて進めていって良いのか、全員で進めるということもしたほうが良いのではないか
との意見が出た

ここの部分は議会の運営上の段取りの技術的・法令的なところで素人にはよくわからなかったが
全体としては、
最初はみんなで話し合うということは要領を得ないから、代表メンバーで大枠を進めていく
勉強した内容も他の議員さんに知っていてもらいたいから傍聴に来てもらうように声がけする(しかし、傍聴には来ないのが現実)
また会議録の配布も行う
ただ条例の変更等の正式な段取りでは全員参加の場が必要になるし、市民のパブリックコメントも必要となる
どのみち議員全員で検討しなければならないのだから、当初の計画を変更して、早い段階で全員の参加を求めたほうが
良いのではないか、、、
(だから、そもそも限定されたメンバーで行うとした事自体がまずかったのでは、、)
いやいや最初の方針通りでいく、、、
この手続論で、本論に入る前になんと45分間も時間を費やした
少し呆れると同時に、この議会改革が議員さん全員に必要なものとなっていないという現実を垣間見た

ところで、へそ曲がりの文句言いの自分は、また少し別のことを考えてしまった
それは市民のパブリックコメントという手続きが必要ということに関して
議員さんでさえその変更の意味がわからないような条例の案を、
(訂正案を提出した議員さんは他の議員さんに分かるように一生懸命説明していた)
まったくの素人に聞いたところで、その意味が分かるとはいえず
素人はなんと答えるのだろうか ということだ
(パブリックコメントを求められるのはどんな人達なんだろう、、、一般市民?)
その聞き方は、答えやすい形式になっていのだろうか

確かに条例の変更・追加の段取りはそのステップを踏むことになっている、だがよくあることで
段取りの瑕疵はないが内容についての検討は、中身がわからないために突っ込むことは出来ず
単にステップを踏んだというアリバイにしかならないのではないか
(だが、市民みんなが議会条例を熟知しているなんてことは、それもまた異常で好ましいものでは無い気もする)

今回はリタイアした検討会議
次はどうしよう、、
少しばかり(よくわからない)責任感のようなものもあるし、やっぱり最後まで見続けなきゃいけない?
本質的にはいい加減な自分、   その時  考えるか、、、

 

 

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「ATI」とは何だ!

2017年05月08日 09時56分59秒 | あれこれ考えること

ATI
銀行やコンビニにおいてあるATMではなくてATI
まちづくりに関する、あるいはその評価に関するとても大事なキーワードだそうだ

この言葉ATIはタレントDAIGOさんの略語みたいなもので、その心は
A 圧倒的
T 当事者
I 意識  

なるほど、この言葉の羅列を見ただけで雰囲気が出てる

この言葉が紹介されたのは昨日(5/7)新城文化会館304会議室で行われた
地域活性化シンポジウム「町おこしの仕掛け人 」の講演のなかでのこと
このシンポジウムの内容は
◆スーパー公務員として知られる塩尻市役所職員の山田崇さんから「地域住民を巻き込む」まちおこしについて講演
◆ 奥三河地区でまちおこしに関る若い世代による事例発表。
◆スーパー公務員、奥三河の仕掛け人たちによるパネルディスカッション。
これに続いて各テーブルに分かれてワークショップで、13時半から17時までの3時間半

自分は知らなかったが講師の山田崇氏は、知る人ぞ知るかなり有名な人らしく
新城で講演があることを知って遠くから(大府市・磐田市・豊橋市など)駆けつけている人がいた
ところが残念なことに当事者の新城市からは約20名の中に5〜6人だった
(それもどちらかと言えばいつものメンバー)

さすがに旬の人物、自信に満ちて、体験して身につけたものも多く、瞬間瞬間の判断も早く
若さゆえの突っ走るところも見えたが全体的には面白かった

詳しい内容を思い出して書き出していくと、まとまらないことになってしまうので
今回は記憶に残った言葉だけを取り上げて、メモしたことを紹介すると
(相変わらずピント外れな点しか気にしていないと言われそうだが)
普通、行政は3年前に計画し、一年前に予算化して行う(山田氏の公務員経験から)
むむむ、新城市に当てはめると新東名高速道路経由の名古屋直行バスはいきなりの計画だったぞ、、

目的を持たずに覚悟を持って行う(必要なのは覚悟なんだ)
お手本なんかはない(そもそも前例がないのが当たり前、失敗しても責任は俺が負うという人物がいると良い)
人のキャリアの8割は偶然的なことで決まる(人生なんてそんなもんだ)

結局のところいろんな話をきいても、聞き手の関心とかその時心を締めている話題に
直結した聞き方のなってしまうが、そんな中で一番自分の気持ちに響いたのがATI(圧倒的当事者感覚〉ということだ
これは2.3ヶ月前行われた市議会の視察報告会(経済建設部の有志)で各地域の事例が紹介され
新城市でもこのように、、、と提案されたが、
自分が一番に気になったのが「当事者は誰か」「当事者はどう思っているのか」という問題

どんなに良い提案をしても「当事者」がその気にならないと物事は結局うまく進んでいかない
昨日の空き家の例では、たまたま公務員(山田氏)が「空き家の持ち主」という当事者感覚を持つために、
その空き家の持ち主(借り主)になり、外から見て分析的に考えるのではなく、内側から身にしみて感じることを
重要な情報として捉え、次の考えに活かすようにしているということだ

結局のところどんな場合も一番真剣になれるのは「当事者」
その当事者の気持を想像力を駆使して圧倒的なリアリティーのある感覚を持つ公務員
そういう人がいれば、何かが変わるかもしれない

最近、思うことがある
それはスーパー公務員(市職員)がこの町から出て欲しいな、ということだ
立派な首長さんや議員さんでなく、現実に日々の業務を取り仕切っているのは
4年毎に変わることもなく連続して専門的な知識を有するようになる人たちで
この人達が覚悟を持って、「全体の利益になる」と各自が判断できるようになる
そして表立って賞賛されることはなくても密かに自分のうちに深い満足感をもって
仕事に取り組める、、、そういう人たちの存在を知ることができれば、、、
そういう人たちがいれば、、、ありがたい

ところで、この日の講演会に新城市の職員の方の姿は見えなかった
ワークショップで自分の隣りに座った磐田市の職員の方は山田氏のウエブ上の情報から
自発的にお金と時間を使って自分のため(いつかは磐田市のため)に来られた

今回は来れなかったかもしれないが、こうした情報に飢えている新城市の職員の方もきっといるはず
そんな人を少しでも見ることができれば安心できるのだけれど

 

 

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参考用に記録しておいた文章(チェスタトンとバーク)

2017年05月07日 11時01分14秒 | あれこれ考えること

「豊饒の海」の第一巻は読み終えたので、続く第二巻「奔馬」に挑戦中
やはり時間をおいて読むよりはこうして一気に読むほうが
再登場人物像があやふやになることはないし、エピソードもあの時のことか
と連想しやすい
良いことずくめだが問題はしょぼい目と、気力と集中力

「奔馬」のことは、今日は横において
先日来気になっている「保守」について、、
と言っても自分が保守かリベラルか右か左かわからない
ずっと学生時代からノンポリだったから、そのまま物言わぬその他多数というところ
と自分では自覚しているが、最近の活動や考え方はある人にとっては
偏っている(左っぽい)とのことになりそうかもしれない
ただ、自分では「曲がったことが嫌い、とか筋の通らないことは嫌い」
というだけで判断しているような気がしないでもない 

ところで、保守関係の本を読んでいて、常々自分の考えてきたこと
実感してきたことと同じだと思う事がある
それはそれゆえに保守ということにならない基本的な人にたいする考え方だ
保守と言われる人に「ブラウン神父」のミステリーで著名なチェスタトンがいる
この人の「正統について」(だったかな?)を紹介する中に次のような文章があった

〈正気な人間ならみな知っている。自分の中には動物的な一面があり、悪魔的な一面があり、聖者の一面があり、そして市民としての一面がある。いや、その男が本当に正気なら、自分の中には狂人の一面さえあることを知っているはずだ〉

これは正気について考察したところの一説で狂気(人)についても
〈狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である〉 

わざわざ取り上げたが、難しく考えると言うことななく、
ほんとそうだよな、、と同意する程度のこと

同じく保守の人にバークという人物がいる
この人の基本的な考え方もなかなか否定し難い
バークの考えを紹介した1文にこんなのがある

偏見は文字通り人が前もって(pre)一定の判断(judge)をもっていることを示唆する。その意味で先入見とも訳すことができる。通常できるだけ偏見を排して物事をみるべきであると言われるが、人間精神はすべてのものでも常にゼロから眺めることはできない。むしろ、多くの対象について、人間はあらかじめ判断して、ある所与の基準から理解する。

その意味で、人は常に中立的な立場から論理的に思考するわけではなく、かなりの程度あり合わせの道具立てで状況に対応する。さもなければ思考に時間がかかりすぎて、変化する多様な環境に適応できないからである。

人間の思考とは、長い時間をかけて斬新的に発達したものであり必ずしも合理的に設計されているわけではない。このように考えるバークにとって啓蒙思想家たちはひとたび偏見や迷信を打破すれば、後戻りすることなく理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。

なんとなく、両者とも楽観的な未来を信用していないということだ

未来を無条件に明るいものと信ずるか
心配してブレーキをかけないといけない面もあるのではないか
そのスタート点が、後の人の選択に関わってくる


日本人は面倒なことを考えることが好きではないから、この部分は無視して
なんとなく世間に蔓延している空気みたいなもので
それぞれがなんとなく勝手に想像してあれこれ言うから
いつまでたっても議論が噛み合わない、、、みたいなところがある

結局海外の文化や思想を取り入れると言っても
西欧人のしつこいくらい厳密な思考過程を本で知ることになると
日本人の態度はあまりにも淡白、感覚的、としか思えない
(もっともそれが全部が全部悪いこととも思えないが)

GW最終日、昼と夜にちょっとした予定あり
その前の、いつものようにまとまらないお話、、

 


 

 

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4部作 第一弾「春の雪」

2017年05月06日 07時51分03秒 | 

夜になると目は情けないくらいかすみ目でしょぼいが
先日の宗次ホールまでの往復の時間つぶしにトライした
三島由紀夫の「春の海」は思いの外電車の中でページが進んだ

記憶に自信がなくなっている現在は、こうした一気読みが良いのかもしれない
近々の記憶が怪しいとは言え、さすがに読書を再スタートしても
しばらくすると(とりあえず)思い出すことができる

約半世紀ぶりの再読
こんな内容だったのか、、と思うところもあれば
僅かに覚えている部分もあるが
これなら覚えていないはずだ、、、と勝手に納得したりもする

やはり若い時に感じた人工的な作り物の様な感覚
それはこの作品が「金閣寺」の作者だということを再認識させる
「金閣寺」はその本の世界の相性が悪くて最後まで読めなかった

感情移入ということが熱中には必要になるが、およそこの本の登場人物の誰にも
感情移入はできなかった
自分の平凡な感覚からすればここに登場する人物は、みんな変な人たちだ
変な人たちだから物語になるのかもしれないが 、
生活環境とか育ち方が違ってきているとはいえ、(その生活ぶりは興味はあるが)
ずっと違和感だけが残った

語り手、登場人物、文体、、、そうしたものに個性はにじみ出る
確かに三島由紀夫は独特の美意識とかイメージするものの描写は流麗で
そこまでの描写が必要なのかと思われるほど雄弁だ

覚えていないはずだ、、
との思いを持ったのは、半世紀前の自分では余りにも経験値が少なすぎた
ストーリーを追ったとしても、その背後にある移ろゆく気分とか意識、
また肉体的な欲望などは、そのときには想像の世界でしかなかったのかもしれない

この本を読んでいる時に思い出したのがヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」
聡子と清顕の状況は、なんとなくそれに似ている
許されるべきではない、という状況だからこそ後先を考えることなく進んでいく情熱
また夏目漱石の「それから」も思い浮かんだ

しかし、何かがこれらとは違う
それはヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」も漱石の「それから」も
全人格的な闘いを(作品の中で)行っている
それは個人的な美の感覚の中で収まるものではなくて、もっと一般化できるもので
それ故に普遍的な意味合いを持つ
しかし、この作品「春の雪」はある一部の世界のこと、、、物語に終止している
(他の人はどうかわからないが、少なくとも自分にとっては)

全人格的な闘い、、などと大げさな言葉を思いついたものだから
考えはあらぬ方向に飛んで村上春樹のことを考えた
この人も相性が良いとはいえなくて読んだのは「ノルウェーの森」と「1Q84」くらいなもの
独特の一種詩的な幻想の世界が醸し出される技術・筆力はずば抜けているかもしれない
しかし、ある批評家が彼の小説を「中間小説」と評価したのはなんとなく分かる
そこには前時代的かもしれないが身を削って、何かに向かう激しさが足りない
(と自分には思えてしまう)

今回たまたま勢いで「春の雪」を読むことになって、文句を言いつつも
それなりに楽しむことが出来たのも事実
この機会だから残りの「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」も一気読みもいいかもしれない
全人格的な闘いが有るか無いかは、最後まで読んでから判断すべきものかもしれない

ところで、このヴァーグナーの「ニーベルングの指環」みたいな4部作
昔から気に入っていたのは本の内容ではなくて、その装丁


本当にこれは無条件に好きだな
それだけで手元に置いておきたい 

P.S.本のタイトルが「春の雪」とあるのは、作品中のあるエピソードから来ているが
このタイトルを選んだ理由は、なんとなく分かるな、、 

GW、のどかな時間の過ごし方、、、 

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宗次ホール「イェルク・デームス ピアノリサイタル」

2017年05月04日 08時29分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

音楽家と宗教家は長生きすると言われている
この日の主役イェルク・デームスは88歳、日本で言えば米寿
母と同じ年齢だ 

74歳のポール・マッカートニーが相変わらずお茶目でパワフルなのと
同じように、名古屋宗次ホールで行われたリサイタルも
年齢を感じさせることはなかった

と言っても、足元は機敏というわけではなく肥った身体をノッソノッソと移動する感じで
昔見たチェリビダッケの指揮台まで歩く姿を思い出した
(あのときは、歩くシーンから静寂という音楽が始まっていたような気がした)

ところが演奏を始めると本領発揮
(ちょっとミスタッチもはあったけど自分は気にならず集中して聴けた)
弾き始めて何よりも驚いたのはその音色
なんと表現して良いのかわからないが、優雅で品があって余裕があって
今までこの会場(宗次ホール)で聴いていた音の記憶と違う
ピアノが今までと違うのだろうか、、、と疑問に思ったほどで
前半が終わった時点でピアノを確認すると、いつものスタンウェイ
何故、今回だけこんなに音色に気になるのか、、不思議な気がした
人間のすることだから同じ楽器でも出す音が違う、、、
と簡単に言ってしまえないほど印象に残った

プログラムはとても良い(自分好み)

バッハからモーツァルト、そしてベートーヴェン、ついでドビッシーとフランク
鍵盤楽器の音楽の表現の変化(その方法と内容)を比較できる
バッハの単一主題からの職人芸的な音響空間、時間の作り方
モーツァルトのホッとするような楽器間が歌うようなやり取り
ベートーヴェンのいい意味での効果を狙った心理的も必然性を感じる流れ
ドビッシーの響き自体の斬新さ、

バッハの半音階的幻想曲とフーガは、たまたまウイーン三羽烏のもう一人の
フリードリッヒ・グルダのレコードを昨年手に入れて自然と聴き比べることになるが
演奏比較というよりは、どちらかと言えば作曲者の方に関心がいく
バッハの音楽は音が詰まっている
真面目で定番的な安心感は毎度感じることで
音楽は感覚的(感情的)なものだけではないことを、そしてそういうことがドイツ人は
好きなんだということを改めて感じる

真面目なバッハの後のモーツァルトのなんという自由さと歌の心地よさ
押し付けることなく聞くほうが勝手に想像したり連想しなければ
その楽しみは真に味わえないかもしれないが、本当に無駄なくサラッと書いている
様なところがおよそ人が作ったものとは思えないモーツァルトの音楽
と言ってもケッヘル番号の遅い(K540)のアダージョ ロ短調は感覚だけでなく
もっと考えられて作られていると感じたが
この曲はめったに聴くことのない曲で、その分新鮮に楽しめたが、曲のある部分どうってこと無いフレーズ
モーツァルト特有のフイに淋しさを感じさせる瞬間がホンの僅かだけあって
その刹那、大事な秘密を見つけたようで、そしてそれはとても切なくて思わず涙が出そうになった
イェルク・デームスのピアノの音はこの音楽にぴったりだった

ニ短調の幻想曲はオペラのレシタティーヴォとアリアみたいなもので
(冒頭の美しい分散和音の弾き方を家ではレコードで聴き比べているが)
よく知っているだけに安心して聴けた

この後ベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番となった
バッハとモーツァルトは続けて演奏したが、気分的な連続性はベートーヴェンまで
一気に行うと、どうなんだろう、、、という心配は余計なお世話で
モーツァルトを弾いたあとイエルク・デームスは一端舞台の端に行ったままで
(少し音楽的な興奮が収まるのを待って?)聴衆が次の曲への期待がたかまった
と思われる瞬間に、ノッソノッソと現れた

ベートーヴェンの32番のソナタ この曲は大好きだ
だからレコードでもCDでもいろんなピアニストのモノを持っている
しかし、実演で聴いたことはブレンデルの一回だけ
好きな曲となればこうあって欲しいという希望がどうしても出てくる
ブレンデルの音楽は、どうも相性がよくないようで、ピアノの音色が好みではなく
イマイチだったな、、、という印象しかない
 
イェルク・デームスの音色でベートーヴェンはどうか、、、
と少し心配はしたが、なんてことはない大丈夫、余計なお世話だった
特に第2楽章の感動的なこと、、冒頭の変奏曲のメロディはベートーヴェンが選びに選びぬいた
いや無駄なものを削り取って作り上げたシンプルな美しいもので
そこから導かれる変奏曲の中で実現される多様な世界
最後のソナタとあって、エロイカや5番を作曲した頃の充実した中期を連想させるような
充実した音の構築物としての変奏があれば
良いことも悪いことも、、それもまた人生!
と達観したような別の世界にいるような静かな音楽もある
(その前に鐘の音も響いてるような、、、)

本当はこれでこの日は充分で
後半はアンコールのような少し気楽な気持ちで聴いた
イェルク・デームスの音色はドビッシーにはぴったりだった
オーストリア人でフランス人ではないが、ドビッシーの音楽にも結構合うものだ
とそんなことを連想していた時、イェルク・デームスのピアノの出す音色は
ウィーンで地元の仲間の音を(ウィーンフィル等の)聴いているからに違いない
と根拠もない、しかし、きっとそうに違いないと思いが浮かんだ 

いつも身近に良い音を聴いている
ジャンル(楽器)は違っていてもそうして日常から自ずと身につく好みみたいなものが
彼のピアノの音の反映されているのだ、、、
そう思うことでこの日の気がかりは一端解決

生は本当に勝手なことを連想できるから楽しい
今後の予定では次は新国立劇場で「ジークフリート」となっているが
この演奏会で拍車がかかってその前に何か聴きに行くかもしれないな、、
 


 

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