パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「失われた時を求めて」に関する偶然の一致(共時性?)

2018年01月15日 08時35分35秒 | 徒然なるままに

今年の目標は「昨年よりもたくさんの本を読むこと」
というのは、少しばかり情けないあまり生産的な目標ではないが
お金のかからない経済的・効率的な楽しみだ

ところが、今年最初の読み終えた本というのがなかなか出てこない
昨年からの続きの「シュメル」人類最古の文明 小林登志子著は
併読中の「個人と社会」オルテガ著よりはあっさり読めるものと思ったが
内容が専門的すぎて、しかも覚えにくい人名がいくつも出てきて
バベルの塔の話、洪水伝説の話、楔形文字、印鑑の話などの大した知識がなくても楽しめるところ以外は
残念ながら目は文字を追っただけとなった 

それでも最後のページまでやっとのこと到達
さて次は読みかけのオルテガに移ろうとしたが、不意に読んでみようかと思いついたのが
買ったまま本棚に飾りっぱなしのプルーストの「失われた時を求めて」を上下二冊にした本(鈴木道彦・編訳)
この20世紀を代表するらしい本は購入時に少し目を通しただけで、その長ったらしい文章にこちらの気力がついていけずにいた
そう言えば同じく20世紀を代表するジョイスの「ユリシーズ」も結局のところ読み終えることができなかった
これらの本は体力・気力のある時期に読まないと結局読めそうにもないが、それでも読んでみようという気になったこのタイミングを逃すのはもったいない

まずは最初のページ、スワン家の人々やゲルマント一家の人々の家系図と経歴が書かれている
こんなに大勢の人が登場するならば、誰が誰だか分からなくなるのは必至
早くも最後まで読めないだろうという気持ち(不安)が襲ってくる
しかしとりあえず読み始めた 
老眼にも少しは優しい文字の大きさ、寝転がって文字を追う
段落がなくページ全体に文字が目一杯なのはちょっと気力が続かない
でも、案外面白いかもしれない、、、ってのが第一印象

数ページ読んだだけで、今度は読みかけにしたままでは忌々しいと気になっているオルテガの「個人と社会」が気になりだした
それで一区切りついた部分で、オルテガの方に移った
ところが、ここでびっくりすることが起こった
なんとこのオルテガの本のなかに「失われた時を求めて」のことが、それも先程読んだばかりの登場人物のことが書かれていた
なんというタイミング、偶然の一致がまたもややってきた
心理学者のユングが唱えた「共時性」(シンクロニシティ)が現れたのだ

自分にはこの手のことが時々ある
きっと自分だけでなく多くの人の中にもあることだろう
これらは単なる偶然の一致かもしれないが、それでもそのように冷静に捉えるのはもったいない気がして
何か意味ある啓示として捉えたほうが損はないだろうと考えることにしている
「失われた時を求めて」を読むのは必然だから、気張って読まねば、、、というわけだ
それにこの様な偶然の一致があったときは、ちょいと運が向いているかも知れない、、などと
根拠のない自信が湧き上がってくるし気分も良い

ということで、今は頑張るつもりでいるが、読み終えられるかな「失われた時を求めて」
(無理かな、、その時はその時で仕方ない、、)

 

 

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苔のある風景

2018年01月14日 10時25分32秒 | 徒然なるままに

さっさと資源回収を終えてから、当番になっている近くのお稲荷さんの掃除に出かけた
子供の頃はお祭りになると畑の中の道に幟がいくつも立って、それだけでウキウキしたものだったが
いつの頃からか、お稲荷さんがあることすら忘れてしまっていた
こうした時々の掃除のときだけお稲荷さんを思い出すことになる

そんなに広くないお稲荷さん
竹箒で落ち葉を掃いていく、あっという間に掃除は終わってしまうが、このお役目も良いことがある
それが木漏れ日が差すきれいな苔のある光景を楽しめること


柔らかそうなビロードの光沢、まだ部分的だが、ここだけ見ると京都のお寺さんを連想させる
なるべくこの上は歩かないようにしよう、とつい優しい気持ちになってくる
ここまでなるのにどの位時間が必要だったのだろう
誰も知らないうちに彼らは本当に少しづつ成長を続けていた
境内一面が苔で覆われるときれいだろうが、それにはあとどのくらい時間が必要なんだろう
そんなことを思いながらスマホで撮影ということになった

スマホの撮影はもう一点

手水鉢(?)にしっかり氷が張っている
今朝の寒さで氷は厚くなっていて、石で叩いても部分的に白くなるだけで割れない
割れないことが嬉しいような気がするのは子供の時とおんなじだ

今日はいい日になるかもしれない
根拠のない確信をもってしまうのは、多分いいことなんだろう(と思うことにしている)

※今日は別のブログからのコピペでズルしました 

 

 

 

 

 

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岐阜市の公開討論会に行ってきた

2018年01月11日 08時35分30秒 | あれこれ考えること

1月9日 火曜日 岐阜市のみんなの森 ぎふメディアコスモスに出かけた
そこでは14時半から岐阜市長立候補予定者による公開討論会があった
SNSでこの情報を知ってから行くつもりでいたが、前日夜から当日の朝にかけて
お腹に違和感があり少し戻して、それ故に気力もなくなっていたが 
それでも「行ったほうが良い」との思いに駆られて、なんとかなるだろうと行くことにした

この「行ったほうが良い」と感じたのはひとつは、候補者の1人が昨年新城市のまちなみ情報センターで
行われた「おくみかわ市民政策研究所」主催の勉強会の講師であったこと
そしてもう一つは、新城市でも昨年10月の市長選の前に立候補予定者による公開政策討論会が行われ
単純にその比較ができると思われたからだ

と言っても、岐阜市の状況はほとんど、いや全く知らない
おまけに立候補予定者の名前も経歴も知らない
僅かに知っていることと言えば、岐阜市でも新城市と同様に市庁舎建設に関して、大きすぎるから
身の丈にあったものを、、とする意見が出ているらしいといういことくらいなもの

そんなに何も知らない状態で見聞きする意味があるかと言えば、知らないがゆえの強み
「討論会の情報だけで選択が可能か?」が確認できそうと思えたことだ
新城市の場合も3回行われた公開政策討論会が、真に選択の判断材料となったかが疑問に思えたし
現実に先の市議会での市長の答弁でも公開政策討論会が投票に影響したとは思われない旨の発言をしている

普通の日の14時半、どんな人が集まるのか関心はまずそこにいく
新城市の場合は木曜日の19時からで仕事が終わった人もギリギリ来られる時間だが
子供連れの方用にも配慮されている岐阜市の今回のイベントの会場のキャパシティは200名
始まる時間にはほとんどいっぱいとなった
そしてその傍聴人は新城市の場合と比べて年齢が若い人が多かった
(といってもあくまでも比較の問題、全体的には年配の人がメイン)
自分はFBでこの催しを知ったが、となりに座った人になんで知ったかを尋ねると
前日に岐阜新聞の記事に載ったからとのこと

会場の入り口には立候補予定のパンフレットが置いてある
三つ折りの手にしやすいものからA4のサイズのものまで
一応同じサイズのものを手にして始まる前に読んでおこう、、、、
とはしなかった
なんとなく体調不良で気力がなかったのと、あくまでも現場の情報で判断しようとしたためだ

少し不思議なことがあった
事前では立候補予定者は6人と聞いていた
しかし壇の上にある椅子は7脚、そして現実に登場した人数も7人
ところが、後でニュース放送されたテレビ番組では6人が討論をした事になっていた
画面に映っているのは明らかに7人、発言者の個別の紹介画面は6人分しかない
テレビ局はおかしいと思わなかったのだろうかと不思議に思ったし
最近のテレビを中心とするメディアへの不信感が募った
(どこかで6人の予定だったが、急にひとリ増えたとか何らかの説明があればいいのに
 画面の人数との整合性がなくて見てる人は変に思ったに違いない)

壇上に7人が揃って、第一感、一人ひとりが醸し出すオーラ・雰囲気だけで採点をすると
これはと思った人物が3人(経歴も何も知らない状態で)
その後、討論(というよりは考え発表)を聞いて、案外やり手かもと思った人物が1人
最初の3人は意見発表の場でもそれなりで、第一印象を崩すことはなかった

討論テーマは4つ 大雑把に人口問題、子育て教育問題、市民自治、雇用起業
各立候補予定者が持ち時間3分で話すことになっていたが、このテーマは新城市での
「どうなる人口?(人口政策)」「かせぐまち(産業政策)」「みんなでつくるまち(市民自治)」
をテーマとした討論会と被る
結局のところ、これらのテーマは日本国中の自治体が当事者として取り組み解決しなければならない問題なのだ
との思いを強くした、と同時にこの会場の立候補予定者の意見・考えの違いがはっきりわからなかった
部分部分は違うこと言ってても大枠ではみんな同じことを言ってる
(ある人とある人はここが違うがあそこ同じみたいな、、)
課題分析と解決法という考え方をしていけば自ずと似通った答えになるのかもしれない

極端な言い方をすると、少し視野が狭そうな印象を受けた二人を除いてあとの5人は部外者にとって
政策や考え方にほとんど差がない
とすると問題は政策の良し悪しではなく「誰に任すか」との選択になる
最後までやりきる力、忍耐力があるか、公平な視点が確保されているか、情報収収集能力に長けているか
人を使う能力があるか、市民にわかりやすく説明する能力があるか、、などなど
首長選挙というのは結局のところ「任せて安心」という人物を選ぶということなのではないか

その大切な選択のための情報提供がこの公開討論会で出来たかと言えば
個人個人の情報を何も持たない自分からすれば、すこし怪しいと言わざるをえないが
岐阜市民は自分のような何も知らない状態ではなく、既に何らかの情報(立候補者の経歴やしてきたこと)を
もっていると考えられるので自分の判断とは違うかもしれない

この討論会を見た(聞いた)限りでは、個人的には第1があの人、2番めはこの人と判断したが
現実の投票の結果とどの位差があるのか興味がある
それは選挙においては「地盤」「看板」の強さがものを言うことの証となるだろう

岐阜駅に向かうバスを待つ間に、同じく愛知県からこの討論会を見に来た人と少し会話をすることになった
「あれは討論会じゃないよな」「最後の方は聞いてて辛かった」
やはり同じようなことを感じたようだ
人数が多すぎるせいもあるが、一度にあれもこれもを取り入れたために
やっただけ!(主催者の苦労には申し訳ないが)の印象は拭いきれない
「任せる人」の選択という意味では、もう少し「人となり」を連想できるものが欲しかったかな

この日、体調不良にもかかわらず行って良かったと思ったのは、肝心な討論会の方ではなく会場となった「みんなの森 ぎふメディアコスモス」が
外は直線主体で、中に入れば緩やかな曲線が用いられたデザイン性が高い建物でとても気持ちよく、つくづくデザインってのは大事だな、、と実感できたこと
外へ出れば想定以外の何かの発見があるということ、、
田舎は住みやすくていいが、やっぱりたまには外の空気も吸わなくては、、


 

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面白そうな「論語」

2018年01月07日 17時50分20秒 | 

何かの書評を見て興味を持ち、現在読んでいるのが「シュメル」人類最古の文明 小林登志子著
その中で何故か「論語」の話が出てきた
(シュメルでも存在した)徳政令が話題の章で、李氏篇の一節が引用されている

「国を有(も)ち、家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)へずして、均(ひと)しからずを患ふ。
 貧しきを患へずして安からざるを患ふ」
国は貧乏であっても、そんなことは心配する必要はない。問題は、国内において物が平等に分配されているかどうかであって
もし平等に分配されていないとしたら、それこそ大変なことだ

と中国史の市古宙三氏の解説が紹介されている
そしてその後 

古来より社会の安定を求める思想があり、安定した社会が成立する条件のひとつとして、
その社会を構成する人々の貧富の差が大きくないことが挙げられる。貧富の差が拡大すると社会不安を招き
政権崩壊にもつながりうるので、貧富の差の拡大を防ぐ為に為政者はしばしば現状回復を試みた。
「徳政令」もそのひとつである。

と本文は続いている
「徳政令」の話はさておき、これは今で言う「格差」があるのはよろしくないということではないか
「論語」にはこんな話もあるのか、と驚きを覚えた
「論語」といえば「温故知新」とか「不惑」とか、「友遠方より来る、、、」しか頭に浮かばなかったが
こんな話があるとは、、意外だった(知らないだけのことだが)

それで今日、映画「嘘八百」を見た帰りに書店に立ち寄って、この本を求めた

 
高校時代には「論語」などは覚えるだけで大して興味がなかったが、今、少しばかり社会や人間のことがわかってくると(?)
なかなかおもしろそうと感じるようになる
この格差はよろしくないという考えは、ピケティの「21世紀の資本」にもそれとなく書かれていた
それは「頑張ったものが報われる」とされる現世利益の自由主義・資本主義に少し意義を唱えるものだ
(現世利益はウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に解説されていたような記憶があるが、、、)

中国の思想というのは理屈を積み重ねて知の体系をつくるというのではなく
あくまでも自らの体験をベースに現実的な対処法を示すように思われる(老荘は少し違うかもしれないが)
だから歳を重ねると自分の経験に結びつきそうな部分が連想できて面白いと感じるのだろう

ところで江戸時代は武士が政治を仕切っていたが、藩校では武芸のみならず四書五経(論語が入っている)が学ばれていたようだ
つまりは政治のエリートとなるような人物は「論語」から現実の世界に役立ちそうな知恵をえていたし
それらが判断の基準となりえていたかもしれない(教養として)
武士特有の何処か物事を大上段に構えた思考もあったかもしれないが、
この座学の勉強もそれなりに影響していたかもしれない(と勝手に想像する)

さてここで現代の政治家さんたちを考えると、彼らは政治的なシステムの専門家であったり言葉(詭弁)の専門家であったりする
しかし判断の専門家か?といえば、正直なところ田舎の小市民でも疑問符がつくと判断せざるを得ない 
そこには「全人格的な知」孔子が達した世界に似たものを感じさせる何かがない 
現代の政治家さんはこの論語の文章を読んで果たしてどんな感想を持つだろう
 


 

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田舎と都会の生活

2018年01月05日 09時25分50秒 | あれこれ考えること

確かにその通りかもしれないと感じる諺がある
「田舎の3年、京の昼寝」
田舎で黙々と勉強するより都会(京)で 一流の人と接している方が
大した努力をしなくてもはるかに勉強になることの例えだ

若い時期はこの言葉に焦りを感じたものだが、今は少しばかり「諦め」という知恵もついたのでそれほど気にならなくなっている
現在は田舎に住んでいるが、時々お上りさんよろしく東京に出かけても、やたら人が多いなとか
人間の顔のポスターが多いなとか、街にあふれる多くの人たちは一体何を考えているのだろうとか
これだけの人に囲まれていながら一人ひとりは孤独なんだろうな、とか
あるいは夜の東京からの帰りの電車で、ふるさに近づくにつれ灯がなくなって辺り一面が闇に包まれそうになっていくさまを
光と同時に音までも吸い込まれていくようで、それでいてなんとなくホッとするような
つまりは田舎のリズムに身体が馴染んでいくのが「旅の目的は自宅の良さを改めて実感すること」以上のありがたさを感じるきっかけとなっている

確かにすごいと思われる人たちは都会にいる
自分がやっと気づいたようなことを、すでにあたり前のこととして、そこからもっと前に進んでいたりする
また手にする情報量が圧倒的に違うし、たとえ同じ情報を得たとしても実感としてのリアリティが違う
(東京で東京のニュースを見聞きするのと、田舎で東京のニュースを見聞きするのは印象が違う)

でも、田舎に慣れた生活をしているので、それに残念ながら自分の力もわかってきているので
遅れている、、ということに関してはもう焦りを感じない
それよりは情報過多で、情報の洪水に飲み込まれて自らの考えを持つことなく、流れに乗っているだけで
都会人やら今時の人間として体裁を保っている人たち(そんな人ばかりではないが)に対しては
幼稚であったとしても自分の頭でのんびり考えること(感じること)ができることのありがたさを思うようにしている

東京に行くと自分が心地よい場所である書店につい足が向かう
紀伊国屋書店とか八重洲ブックセンターなどだが、折角きたのだからどこでも求められるものではなくマニアックな本を探す
すると、あるだろうと期待した本は案外見つからない
ここで改めて自分が少し変人かもしれない、、と実感する
そしてこの変人ぶり(?)の背中を押すのが田舎という環境
都会にいれば現在という時間に振り回されすぎるだろうが、田舎ではどうでもいいことをあれこれ考えたり感じたりできる
そんなもん考えて感じてどうなるんだ、、ということだろうが、それが個性だからこれはしょうがない
(ただもう少し同じような指向性をもった人が近くにいたら楽しいだろうなとは思うが、、)

今はこの様に感じるとしても、若い人たちが持つであろう都会に出てみたい
なにか勝負をしてみたい、有名になってみたい、世界に関与するようなことをしてみたい
都会人としての自分を自慢してみたい、、と言うような気持ちはよく分かる
地方では若者の都会への流出が問題となっているが、多分雇用の問題だけでなく
こうした若い人の焦燥感、憧れがおおきなウエイトを占めているのではないか

最近は大学が周辺都市から都会回帰となっているようだが
これなんかはこうした若者の気持ちを汲み取ったことなのだろうか

ということで、現実は田舎にいるので「田舎の三年」をマイペースでやり続けるしかない
とりあえず今年は昨年以上の読書量に挑みたいが、いきなり壁にぶち当たってる
オルテガの「個人と社会」 これが「大衆の反逆」よりは観念的でわかりにくい
この分だと最後のページまでたどり着いたが、何を訴えているか分からない、、ということになりそうな予感
でも途中で放棄するのは忌々しいし、、、
同時進行は「シュメル」人類最古の文明 (小林登志子著)多分こちらのほうが先に読み終わるだろうな

 

 


 

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今年の聴き初めは、モーツァルトの「魔笛」

2018年01月03日 09時07分03秒 | 音楽

毎年最初に聴く音楽は慎重に選ぶ
「一年の計は元旦にあり」この言葉が頭の片隅に鎮座していて
下手な選曲は出来ないと勝手にプレッシャーがかかる
バッハなら当たりハズレはないし、クリスマス・オラトリオの正月用のを選べば
問題はないのだがどうも気が乗らず結局選んだのは

モーツァルトの「魔笛」ショルティの指揮したウィーンフィルのやつだ
聴き始めというのもも実は昨年からの続きといったほうが正確で
昨年は6面あるレコードの4面まで聴いていて残すところ5面、6面だけになっていたので
この際年始に最後まで聞くことにしたというわけだ

大正解!
とても楽しかった
「楽しい」という言葉が音楽を聴いて出てくることはそんなにないかもしれない
音楽を聴いて感動したとか圧倒されたとか何か考えさせられたとか 、、
そういう言葉が出てくるほうが普通だが、この「魔笛」は何か無条件に楽しい

個人的にはレコードの3面に収まられれいる1幕3場のシーンの音楽がとても気に入っている
真面目な元々は頼りないタミーノが、ザラストロの下に囚われているパミーナを助けようと
神殿に入ってくるシーンから始まる音楽は、急に真面目なしかも美しいコーラスが挿入される
そしてその後で起きるいろんな人間が入り混じってのバタバタ騒動
本当にこのシーンは楽しい、パパゲーノがグロッケンシュピールを奏して
みんながつい踊りだしてしまうようなところは演劇的で一気呵成の楽しさ

この場面がずっと気に入っていたが、今年始めの5面も楽しかった
それはパパゲーノのアリア「恋人か女房がいれば」があったからで
この無責任な脱力系の歌詞はこんなだ

彼女か女房を パパゲーノは欲しいんだ
ああ そんな気立てのいい可愛い娘がいたら まさにこのうえない幸せよ

そうなりゃ飲み食い みなおいしくて 王様とだって肩を並べられるだろうさ
人生を賢い人間として楽しみ まるで天国にいるようだろう

彼女ひとりか女房ひとり おれの欲しいのはこれだけさ
優しい小鳩がいてくれりゃ まさに幸せそのものよ

ああ 誰も好いてはくれんのか 魅力的な娘たちの誰にも?
どうか誰か この苦境から助けておくれ さもないと本当に死ぬほどうらむぞ

娘っ子か可愛い女房がひとり パパゲーノは欲しいんだ
ああ やさしい小鳩がいてくれりゃ おれはまったく大喜びさ

誰も俺を愛してくれないなら わが身をこがして死ぬまでよ
それでも女性のくちびるがキスしてくれたら そうしたら俺はきっとまた元気になるさ

この歌の後もセリフで馬鹿馬鹿しい楽しいのが続く
そうして楽しい気分になってレコード6面までくるといよいよ最後のシーンとなる
真面目な主人公タミーノは我慢して努力して目的を果たすのだが、横着者のパパゲーノは
せっかく目の前に現れた恋人候補のパパゲーナが直ぐにいなくなって希望を失い
もう生きている価値がないとさえ思うようになる
こんなことなら1.2.3と数えて首を吊ろうとするが、そのカウントも本気なのかどうか、、
誰かが助け舟を出してくれないか、、と期待しながらゆっくり小さな声で、、数える
でも、ついに誰も助けにこず3となった
この瞬間に現れるのが今までのふざけた気分を覆すパパゲーノの心情を表す悲しい雰囲気の音楽
その効果的なこと
だがそれは一瞬のこと
音楽は一気に明るい大団円にむかう
横着者のパパゲーノにもまるでプレゼントのようなパパゲーナが現れ
「生きていていいんだ、、」と肯定的な結論にいたる

そう、とても肯定的な結論だ
良い人も横着な人も生きていていい
それは、赤塚不二夫の「それでいいのだ!」を連想させるような
おおらかなホッとする結論だ

この魔笛、台本が楽しいから楽しいのか、、といえば、多分違う
モーツァルトのキャラクター描写の的確さ、感情のコントラスト、勢いにのった時の音楽の進行、そして晩年特有の静謐さ
それらがあってこそ楽しい世界が実現される
こんなとんでもない物語でも人の心に響く様に美しい音楽が可能なのがモーツァルトの不思議なところだ
「魔笛」を聴いたゲーテが、その第二部を書こうとしたらしいが、その気持は分からないでもないな

ところで、聴いたのはレコード盤
少し反っていたので妙な雑音が入ったが、中身がギュッと詰まった音はレコードしか味わえない
多少のノイズよりはこちらの音を選んでしまう


 

 


 

 

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走る!走る!

2018年01月02日 11時51分03秒 | 徒然なるままに

お正月といえば実業団駅伝と箱根駅伝
ついつい走ることに注目がいくが、我が家にもランナーが登場した
6歳の双子の女の子と3月に3歳になる男の子が年末から来ていたが
この子たちの走ること走ること
8畳.6畳.8畳の部屋と、それをぐるりと囲むような廊下みたいなところを
家に入ったと思ったら、なにか訳の分からない声を上げて走る走る
そしてその姿は「シクラメンのかをり」の歌にあるような疲れを知らない子どもそのもの
滑って転んで泣きやしないか、、、と心配するも彼らはお構いなし、とにかく走る走る
見ているこちらが疲れてきそうだ

そう言えば昔のお正月もそうだった
小さないとこ同士が集まって昔の家の中を走り回っていた
昔の家は押し入れがたくさんあったので子どもたちにとって遊び場の宝庫
ちょっとだけ年上の、今はしおらしい奥さんになっているMが中心になって隠れんぼ
でも隠れるところは限られているので直ぐにわかってしまうがそこは大人の優しさ
「あれ、どこかな、、、」と大きな声を出しながら探すふりをして付近をウロウロ
すると、どこかから笑い声が聞こえてくる

子どもたちの声はよく響く
音程も高い、そしてなぜだか精一杯の声を張り上げる
何をそんなにムキになって話すのかわからないが、とにかく一生懸命
それは直前の未来しか見ていない 
でもその近視眼的なところが罪がなくてかわいい

子どもたちのエネルギーが有り余って走り回るのは地区の盆踊りの練習の際の
小学校の体育館でも見られた
ここでも子どもたちは走る走る、、走らなきゃ損だというように、、
なぜ走るかはわからないが、子供とはそういうものだ、、というのが実感

かわいいモンスターたちも今朝帰路についた
いるときは騒がしくて疲れてしまいそうだが、いざいなくなってしまうと
家は妙にシーンとして寂しさが際立つ
それにしても、彼らは本当に呆れるほどよく走った お疲れ様!
 

 

 

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