パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

読書とは、文字から喚起されるイメージを追うこと(かな)

2018年01月19日 08時37分51秒 | あれこれ考えること

別にノルマでもなんでもないのだが、投稿をサボるとサボりぐせは直ぐに身について
今日はこれこれの理由で、、ま、いいか、、、ということになってしまう
でも、それが続くとどこか気持ち悪くて無理やりネタを探しながら、とりあえず何でも良いから
エイヤッと書いてしまえ、、ということになる
どこか気持ち悪いというのは、習慣になっていることが出来ていないことへの戒めなんだろうか
何でも良いから、習慣にするということは良いことかもしれない
現在の自分の習慣は朝ごはんを食べた後の掃除機がけ、、(あるデータによるとお風呂の掃除のほうがありがたいらしいが)
これも最初は面倒だな、、と思ったものの、今では当たり前、慣れっこになっていて、通勤の車の運転が
気づかないうちに終わってるようなもので、作業をしたという意識すらなくどうってことなく済んでいる
あとは朝ごはん前の同居人との般若心経を唱えることも習慣になっている
これは般若心経の内容が気に入ってるとか、仏教徒とか、ご先祖様を敬うなんて気持ちではなく
できるだけ同居人と同じ経験をしておきたい、それを記憶にとどめておきたいという理由からだ
(多分ご先祖様は、それでいいとしている、、と思う)
 

さてくだらない本題(?)
とりあえず、途中で投げ出すことはなく、蟻の歩みくらいのんびりと進んでいる読書の二冊
オルテガの「個人と社会」プルーストの「失われた時を求めて」
片方を読んで、少ししんどくなてきたら気分転換に別の方に移ることを繰り返しているが
どちらもそれなりに集中力を要する
文字を追って、その内容を理解しようとすると文字を追うという作業以外に自分の頭の中に
何かしらのイメージを思い浮かべることが必要になる
読みはじめのときはこの作業がなかなかうまくいかない
確かに文字を読んでいる、そしてあるときは黙読する声を頭の中で聞いている
しかし、この声はどの声なんだろうか、自分の話している声の記憶なのか、それとも純粋に頭の中の声なんだろうか
(時々、このことが気になって仕方なくなる)
読んでいて調子が出てくると、この音を伴った文字を追うという作業が、今度は文字面を追ってイメージを喚起する作業に変わる
こうなるとしめたもので、読書のスピードはぐんと上がる
正確な理解はしていないかもしれないが、そんなことは気にならない
これは多分多くの人が経験することで、例えばハリーポッターのアクションシーンなどは文字を追うというよりは、
そこから喚起されるイメージを頭の中で映像として見るようなことになっているのではないか
つまりは本を読むということは、文字が引き起こすイメージにシンクロすることということなんだろう

「失われた時を求めて」はダラダラと長い文章が続く
物語も今まで読んだところまでは劇的なことはない
それこそ書き手の頭に浮かんだことを、聞かされている(読まさせられている)感じだ
こういうときは文字を追うとなかなかしんどい
そこで文字を追うのを諦めて、文字が喚起するイメージに身を委ねることにする
するとこれがなかなか楽しめそうな雰囲気にかわる
コンブレーの街や教会を自分勝手に想像しながら読むと、記憶のなかにたゆたう映像のようで
それこそプルースト独自の世界かのようだ
オルテガの「個人と社会」も似たようなものだ
この本で少しばかり嬉しくなったのが、かつて自分も考えたり疑問に思ったことが、彼も大事な「考えるべきとこ」として扱っていることだ
社会が成り立つ上で自分と他人の関係、自分は明らかに他人ではないが他人も自分と同じように考えているだろうという想定とそのアバウトさ
本とは不思議なもので、結局のところ自分で求めていた考えを確認するもののような気さえする

オルテガの方は最後のページまでたどり着きそうな気がしてるが、プルーストの方は相変わらず自信がない
しかし気分的には、この二冊は今の自分のメンタリティには必然的だった気がしている
似てはいないかもしれないが、自分にとってはこの二冊は個人の有り様をそれぞれの立場で説いたもの
結局のところ自分は「個人」というものの有り様が一番気になっているのだと、改めて自覚する

ということで、いつもの毒にも薬にもならないお話
しかし短くまとめたとは言え「失われた時を求めて」の上下読み終えられるかな、、
途中で投げ出すのは忌々しいし、、、かといってしんどそうだし、、、

 

コメント
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