水曜日の朝、いつもの勉強に入る前、ブラジルにいる9歳の男の子に聞いてみた
「今オリンピックをやってるのを知ってる?」
「知らない!」
朝から晩まで、ずっとテレビ放送があって大騒ぎしている日本とは
随分違うようだ(お姉ちゃんは知ってるだろうけど)
「オリンピックには魔物がいる」
つくづくそう実感する
それはあたかも運に振り回される勝負とか報われない努力とか
4年に一度という時間経過の残酷さとかの選手に関することではなくて
それ以外の点においてだ
今のオリンピックの姿(あるいは報道)は個人的には異常だと思う
メディアは「パンとサーカス」を連想とさせるような世間の空気づくりをしている
いくら自分が偏屈な人間でも、日本人選手がいい成績を収めれば
それなりの理由のはっきりしない高揚感は覚える
それはどうしようもない事実だ
その時は明らかに国という存在を自覚する
多分、これは個人的な思いではなく、どの国も人もそうだと想像できる
だからこそ国家は国威高揚にオリンピックを利用する
開会式で使われたジョン・レノンのイマジンが実現されないのは
皮肉だがオリンピックの現場だ
かつてはヒトラーのドイツがベルリンオリンピックを利用した
今話題となっているドーピング違反も一時期は
良い成績を得るために東ドイツが頻繁に行った
国は(ある組織は)目的のためにお金も悪知恵も絞り出す
自分にとっての「オリンピックの魔物」とはこのことだ
その被害者にフィギュアスケートのワリエワがいる
禁止薬物がどの様に使われたか、なぜ使われたのかの事実はまだわからない
だが使われたという現実は歴然と存在する
この15歳の少女は、そのために世界中の注目が注がれ
この数日精神的にしんどい時間を過ごした
(どんなに落ち込んだことだろう)
スポーツの成績にメンタルがどのくらい影響するか?
を今回ほど明らかにされたことはないかもしれない
少し変な言い方になるが、ワリエワがその精神状態を反映して
上手く演技できなかったということは、良かったと思う(というかホッとした)
もし彼女が何事もなかったかのようにいつもの完璧な演技ができたなら
その精神力に感嘆しても共感は覚えなかっただろう
人の心とか感情をもっていた、、と思わせる不出来は
「それでいいのだ!」とむしろ応援したくなる
スポーツの世界ではリベンジとか復活をテーマにドキュメンタリーが作られる
もし自分がドキュメンタリーをつくる立場にいたら、この選手ワリエワの
その後を追いかけてみたいと思う
最近の女子フィギュアスケートは競技生活のピークが低年齢化していて
15歳の彼女も直ぐに過去の人になってしまうかもしれない
だが成績として復活する姿ではなく、彼女がこの困難を自分の内面として
どう乗り切るか、、を知りたいと思う
高木さんのお姉ちゃんもパシュートでの転倒は
何時までもフラッシュバックのように頭によぎってくるだろう
残酷だが過去は変えられない
変えるのは自分の心、気の持ち方、、
時という不思議な存在がいつか、あの出来事も必然だった
と思えるような気持ちになれるかもしれない
それは自分を正当化する単なる都合の良い考え方かもしれないが
それでいいのだ、、と思う
ところで競技以外のオリンピックの魔物は、東京でも見られた
東京オリンピックは本当にいろんなケチがついた
まずは招致について賄賂が使われたのではないか?という疑い
国立競技場の建設がザハさんの案から変わらざるを得なくなったこと
大会運営費がとんでもなく膨張したこと
大会ポスターのパクリ疑惑
一番矛盾を覚えたのが「スポーツに最適の気候」と世界各国に嘘をついたこと
選手村の膨大な弁当破棄は、前大会から検討事項になっていたが
何も改善されなかったこと
コロナ禍で外出を控え、団体で行動しない様に求めらたにもかかわらず
聖火リレーではオリンピックスポンサーの喧しい宣伝カーとスタッフが先導して
「この時期にそうするか?」と思われたが、ニュースではそこは映さず
何もなかったかのように報道されたこと
媒体がオリンピックスポンサーになっているので、オリンピックの意義とか高揚感を
伝えることがあっても、反対する人々の声を伝えられなかったこと
そして最近の出来事としてはNHKの番組で「お金をもらってオリンピック反対のデモをしている」
と捏造された字幕を入れたこと
オリンピックは実態は一民間団体の主催するイベントに過ぎないが
その経済的影響力が余りにも肥大化したために
もはやコントロールできない様になっているのではないか
個人的にはオリンピックというよりアスリート同士の戦いは
その厳しさ故に、努力も含めて尊いと思う
だがそれがオリンピックという形でしかできないか?
といえば、今は一旦じっくりと考える時期になっていると思う
それにしても朝から晩までのオリンピック報道
これで本当にいいのだろうか?
我が家の偉い人はメモ魔だ
毎日レシートの金額を手帳に書き込んでいるだけでなく
(だが、何故か合計金額は計算していない)
ものを購入した時は、割に世間にあるようだが、その品物どこかに
購入日を書き込んでいる(元号なので変わると直ぐに経過時間がわかりにくい)
この他に、ある特定の時刻の気温をカレンダーに書き込んでいる
「今年は寒いね!」
ということで、過去4年間の1月の気温のグラフを作ってみた
青いのが今年で1月の中旬は特に低くなっているが、実感ほど低いとは言えないようだ
ただ明らかに過去の年と違うのは電気代だ
電気代の記録もずっと残っているが、今季は毎月少しオーバーどころではない
電気代が高いのはそもそもの料金が高止まりしているのか、
それとも暖房器具の利用が多いためか、、
その両方なんだろうが、結局は今年は寒いことを示している
でも、今朝の近所の子らとの校門までの付添では
道の途中の家に梅の花がもうじき咲きそうになっていた
我が家のヒュウガミズキもトサミズキもボケの花も
健気に来たるべき時を待っている
日の光も随分明るくなっている
(この光の色に騙されて外にでると寒いと思うことがある)
あと少し
自然と動きたくなるまであと少し
コロナも早く納リますように
クソ真面目な政治家、立憲民主党の小川淳也氏は約束通り
毎週火曜日は市民との対話集会を続けている
彼の考えが全面的に正しいとは言えないとしても
この地道な行為は、その真面目さ故にいつか報われると信じたい
オミクロン株が爆発的にひろがる現在、人の集まる形ではできないので
流行りのZoomを使ってここ数回行っている
昨日もそうだった
予め参加のためのミーティングIDとパスコードは知らされているので
誰でも参加できる
昨日は約130名ほどの参加だった(前回もそのくらいだった)
12時からスタートなので、参加できる人は限られる
時間に余裕のある人、小川さんにシンパシーを感じる人が主だ
対話という形をとっているので、小川さんからの国政報告はわずかの時間
あとは参加者からの質問とか意見が続く
ここ数日話題になっている参議院の選挙協力について、維新との接近
共産党との距離感に不満を持つ人が多く、小川氏も言葉に詰まることがある
だが、それは彼には辛くても一つの意見だ
このあたりは現実的な戦術と、あるべき姿と、、いろんな兼ね合いで
簡単な作業ではないと思われる(最終的には結果責任でしかないか)
ところで本質とは関係ないが、昨日は極めて特殊な事件が起きた
質問タイムの時の画面に、いかがわしいポルノチックな映像が突然現れたのだ
本来ならば質問する方の顔が出るはずなのだが、
画面はいかがわしい画面がついたり消えたりしている
画面共有で誰かがそのサイトを覗いて、みんなに見せようとしている
それが何のためかはわからないが、大勢の人がこれを見ることになった
その時の対処スキルが運営スタッフにあるのかどうかはわからない
ただ困り果ててなんとかしようとしたと思われる
こんなこと(妨害)は予想されたことだから、参加条件をオープンにするのは
良くなかったとも言える
しかし、その際の言葉が良い悪いは別にして彼らしかった
「これもまた社会です」
世の中にはいろんな人がいる
悪さをしたり、一方的に敵視するひとが存在するという現実
それも一つの社会だ
彼の対話集会はYoutubeでも公開された時もあった
視聴者がリアルタイムでコメントが書ける機能があるのだが
このコメントにしばしば「荒らし」と言えるものが登場する
感情を逆立てるような煽るようなコメント
根拠のある筋だった話ではなく、闇雲に言いたいことを言ってるだけのコメント
それは彼の真面目さに不安を覚える人が行っているとさえ思う
これらの意見とか妨害がない世界のほうが良いに決まっている
しかし、現実は残念ながらそうではない
むしろ理由のよくわからない感情が渦巻いて
そちらのほうが力を持ちそうな雰囲気さえある
残念だが世の中はこうした側面もあるという現実
それを変えていくのは、個人的には穏やかな庶民の常識というブレーキしかないと思う
(そのためには社会の安定と教育かな、、時間はかかりそうだが)
世の中は、なかなか予定調和の様にいかないな、、と実感する
三島由紀夫の「天人五衰」で読後感が悪くイライラしてたので
気分転換に後味の良い映画を見た(Netflixで)
ビートルズのいない世界「イエスタデイ」だ
流行りのパラレルワールドに行ってしまった男の物語で
そこにはビートルズは存在しなかった
売れない音楽家の彼は新しいギターで名曲「イエスタデイ」を歌うと
初めてその曲を耳にする周りの人間はその曲の良さに驚きを覚える
本人はビートルズのカバーに過ぎないと自覚していても
周りは彼の作品と信じ込んでいる
ここからバタバタした話が展開される
この映画がとてもいいのは、三島由紀夫の物語と違って
「変な人」(悪意を持った人)が登場しないことだ
わずかにマネージャーが金銭欲に支配されて、変な人の部類に入るが
売れない音楽家の周りは、ずっと彼から特別な存在としてもらいたい女性がいて
二人の関係がビートルズの歌の流行とともに変化していく
そのうちビートルズのカバーに過ぎないことを知っている人が現れる
ヤバい!と彼のその後の運命を心配するが、
ここからはネタバレになるので表にできないが
ホント、このエンタメ作品は後味が良い
(それからビートルズの曲が素晴らしことを再確認する)
この映画にはビートルズがいないだけでなく「コカ・コーラ」も存在しない世界だ
なぜ「コカ・コーラ」が存在しないのか?
はビートルズを知ってる人には、分かる
このように背景知識としてビートルズのことを知っていると
「こうきたか!」とくすっと笑えるシーンが幾つかあって、それも楽しめる
物事を楽しむのは、その瞬間だけの反応だけでなく
積み重なった知識とか経験が必要なのだとつくづく思える
これは和歌の世界で作品の元歌を知ってるのと
知らないでいるのでは味わい方が違ってくることと同じだ
映画に出てくる「何で64歳」のセリフも
パラレルワールドに移行する時の騒音に近い音も
それからエド・シーランが才能比べのシーンでは
サリエリとモーツァルトの差だと自らの負けを認めるところは
映画「アマデウス」を思い出させる
つまりは同じものを見ても、それだけを味わう人と
それ以外の複合的なものを味わうのでは随分違うということ
ブルデューは階級の差による体験の差とでも言いそうなことだが
できることなら豊かな世界を味わえるほうが良い
ところでコカ・コーラがないヒントは「Come Together」にある
言わずもがなかな
271ページ、580円、昭和46年、第2版
所有している三島由紀夫の「天人五衰」を再読した
若い時、読んだはずだったが何も覚えていない
わずかにラストシーンだけは覚えているが
読み直してみて、若い時は分かるはずはない!と実感した
時間を経ていろんな経験をした分、多少は共感する部分も増えたはずなのに
実際はイライラしながら読んだ
途中で読むのをやめようかとも思った
それはやはり物語に登場する「変な人」のせいだ
「変な人」は自分を美人と思っている気の狂った女性
感じることも行動することもしないで、眺めているだけで一生を終えてしまいそうな人間
悪意をもって人を傷つけることを意図する人間
性的なアブノーマルな嗜好を持つ女性
つまりは、普通の人の集合としての物語ではない
この4部作の語り部である本多は、人生の総仕上げとして松枝清顕の生まれ変わり
の結末を見ようとする(3つの黒子の印をもつ人間の結末を見ようとする)
それこそが自分の生きてきた証のように
そこには自意識を持つゆえの繊細な苦悩がある
この苦悩はわからないではない、しかし、そこから先はどうしてもわからない
(相性がよくないというよりは、そもそも根本となる生き方の違いを感じてしまう)
繊細な自意識の本多の苦悩、孤独感は三島由紀夫が大嫌いなサルトルの
「嘔吐」の主人公ロカンタンの孤独と通じるものがある
正直なところロカンタンの孤独は分かる、だが本多の孤独は人工的すぎて違和感を覚える
その人工的すぎる作り物は「変な人」とか「変なエピソード」によって出来上がっている
確かに部分的な精緻な描写は語彙の豊富さ、喩え方の洒脱さなど眼を見張るものがある
だがそれだけだ(自分にとっては)
もう三島由紀夫は(読まなくても)良いな!
読み終えてそう実感した
だがアマゾンで「文化防衛論」を購入してしまったから、それで最後にしようか
不意に、話せば分かるとか、時間をかければ分かるようになる
ということは、実は無理なのではないか!
とこの本を読んで頭に浮かんだ
途中までの理屈はわかっても、最後の段階の論理(考え方)の飛躍は
個人間の背景とか体験が違いすぎるので、想像力で補いきれないのではないか
世の中にはわからない人がいる
だからと言ってその人々を否定しようとは思わないが
間違いなく理解出来ないかもしれない人がいるという事実は頭に刻まれた
同様に自分も理解されえない可能性は十分にあるということで
これは仕方ないと思うしかない
ということで(自分は)評価の高い人とされていても、それだけで
必ずしも全面的に受け入れるわけではないということ
もっとも、自分ひとりがそう言い張ったところで何の影響もないだろうが
三島由紀夫の「天人五衰」を、やはり相性が悪いなと
イライラしながら読んでいたが
気分転換に河合案里氏の買収事件を扱った「ばらまき」
(中国新聞決別金権政治取材班)に移って一気読みした
なるほどタイトル通りの「ばらまき」だ
圧巻なのは裁判の証人としてお金を受け取った側の人間の証言が
これでもか!と言われるほど登場することで
それがあまりにも同じパターンで多いので、
こうした行為のほうが世の中では当たり前なのかと錯覚しそうになる
というより、実社会は表に見えないだけで、こうなっているのではないかとさえ思えてしまう
(先の選挙では新潟県の自民党の重鎮が裏金を要求した事件を思い出す)
これは法的な制度としてザル法に近い、結果的に有効性のないままの法律を
改良をしようとしない国会議員たちの狡さを思い知らされる
また「盗人にも三分の理」という言葉があるが
裁判といった言葉の上の戦いとか、個人の説明という機会では
なんとでも言いようがあるものだと怒りと絶望感を覚えてしまう
選挙の現場では狂気に近い空気が支配すると知らされたのが
「なぜ君は総理大臣になれないのか」と「香川一区」のドキュメンタリー映画だが
それは我が市が日本で初めて市長候補者による公開討論を条例化した「公開討論条例」が
実は如何に浮世離れしたものか、、と思い起こさせるものだ
政治は面倒なことに政策部門と権力闘争の部分がある
そのどちらを優先するかが問題だが、インテリ層とか意識高い系は政策部門を過大視する
ところがその政策を実現するための然るべき地位に立つための選挙は
おそらくは理性に訴える要素よりももっと別の力が支配する
それは一種の戦いの高揚感で、白黒がつくというだけで祭りのようなものだ
勝たなければ意味はない!
それが極論化されれば、わからないところで(言い訳ができれば)なんでもやってしまう
そうした気持ちになってしまうのが人というものだ
ところでこの本を読んでて不安になったのは、我が市の自民党の市議会議員は
党からそれなりの金額を寄付してもらっているのだろうか?という点
寄付があるとすればどのタイミングで、どんな意図を持って渡されるのか?
これらが日常化していれば自民党に所属する議員と
それ以外の議員の手元のお金は差が出てきてしまう
そして個人間の損得を考えると自民党に所属している方が圧倒的に得になる
どうも世の中はあるべき姿ばかりではない!ということを思い知らされるが
それでも冷笑したり、見て見ぬふりをするのは少しも良い方に進まない
この広島県の事件はお金をもらった人たちも選挙違反だが
当初、司法取引的な意味合いで(?)で起訴されなかったが
世間(世論)が受けとった側の責任も追求したので
起訴された人、起訴相当の人などと、
世間的な価値観からすれば当然と思われる状況にいたった
やはり常識的な声はあげるべきだ
それがデモという形になろうとも
それにしてもこの事件の一番の当人以外の中心人物は
まるで他人事のようにこの事件から距離をおいている
その表現がこの本にもあった
何でも彼のせいというのは違うかもしれないが
それで昨今の様々な問題は彼の責任臭うことが多い
その彼が選挙区では圧倒的に勝ち続けるという現実
世の中は難しい
でも少しづつでも良い方に進みますように
藤井竜王が先程王将を勝ち取り5冠を達成した
将棋はわからないが彼が強い事はわかる
YoutubeではAI評価値を軸に流しているので
接戦の様子はハラハラするくらいだ
囲碁も将棋も敗着で勝負が決まる
ミスしたほうが負けということだ
AIでは勝勢だったものが一気に引っ切り替える場面を
先日のNHK囲碁トーナメントで見かけた
(井山さんのちょんぼか?棋聖戦でもやらかしたし)
やはり人間はミスをするのは避けられない
それを思うと藤井竜王のミスの少なさは凄いな
これは若さゆえなのか?
将棋に劣らす囲碁でも若い人が頑張っている
芝野虎丸、一力遼、関航太郎などなど(中村菫ちゃんも)
そろそろ30代の井山さんも以前のように勝てないかも
(だが魔王と言われるから、まだわからないか)
ところで以前から不思議なのだが
将棋の対局者は着物だが、囲碁は普通の服でやっている
何でだろう?
そういえば、蕎麦屋は凝った日本風の味わいの店が多いが
うどん屋は庶民的な明るい店が多い
何でだろう?
麺の色の違いから来ているのか(そんなことはないか!)
ということで、三連休中日のお気楽な話
テレビはオリンピック報道ばかり
これだけオリンピック依存が高いとオリンピックに否定的な人の意見は
テレビ局は鬱陶しいかもしれない
(個人的には、もはやオリンピックは商業主義のイベントに過ぎず
弊害が多すぎる気がしている)
NHKの例の字幕はその現れで、単なる間違いだったというよりは
何らかの意図があったと思われても仕方ない
(視聴率を稼ぐせっかくの機会を否定するようなデモ行動は目障りだとする)
オリンピックははっきりと勝ち負けがつくので(判定競技以外は)
その厳しさ故に凄みのある美しさ・残酷さを生み出す
それは実はオリンピックに限らずスポーツの世界につきものだ
だが4年に一回ということが「運のあるなし」の劇的なドラマを
人に思い起こさせるので、勝負よりももしかしたら時間の経過の意味とか
残酷さをより味わっているのかもしれない
ところで、高梨沙羅さんの失格について彼女はSNSで真っ黒な画面と
謝罪の意を現している
謝らなくてい良いという意見がある反面、追い打ちをかける様な
きついバッシングもあるしい
これは日本だけに限らず中国でもフィギア団体で上手くいかなかった
女子に対して相当酷い言葉があったらしい
勝ち負けがはっきりする戦いは、どうしても心情的に国という存在を
捨てきることができない
その気持はわからないではないが、瞬間的な気持ちの発露は
多くの人を傷つけることになりそうで、気持ちのコントロールができるようになると良い
SNS等で簡単にバッシングする人は、競争した選手の努力が
応援している選手のそれと同じくらいであることを認めていないかのようだ
戦った当事者は相手の努力を肌で実感するからリスペクトにつながるが
テレビ見てるだけの人は今起きている事柄に感情的な脊髄反射を
してるだけのように思えてしまう
ところで、話は変わって、高梨沙羅さんの失格についてその反応の仕方が
国によってかなり違う、、との報道を見かけた
失格になったのは高梨さんだけでなく、ドイツを始めとする数カ国があるが
この他の国の反応が日本とだいぶ違うようだ
どうやら正式に抗議しているのではないようだが、失格判定に怒りを現している
それは「自分たちは失格になるようなことはしていない」との意思表示だ
確かにスーツの数字は規定をオーバーしていた
しかし体の計測方法が今までの方法と今回は違ったようだ
選手やスタッフに予め変更するとの連絡はなかったようだし、
計測する人の人数も何故かいつもより多かったらしい
日本は事実は事実として数値オーバーを認めて、高梨さんは謝罪という形になったが
このスーツは数日前に着ていたものと同じで、その時はクリアしている
高地で体重減が起きて体がサイズダウンして前は良かったスーツが
今回はだめになったらしいと、、想像の報道を見かけたがそれが正解かどうかはわからない
日本の報道(社会)は他国には違和感を覚えさせるらしい
金メダルが取れなかったら謝罪する
少し違和感のある判定に対しても声をあげない
そのメンタルはどこかおかしいらしい(西欧的な規準からすると)
日本は世間の目とかお上(権威)に弱い(と思えてしまう)
一旦出来上がった世間の空気とか、あやふやでも出来上がってしまったものに弱い
そこには「自分の判断」という行為がない
判断があるとすれば、誰の判断に同意を示すかという判断しかない
アイヒマンの裁判では「たとえ命令されたことでも、あなた自身が判断する要素はあった」
と個人としての彼を裁いている
ところが日本の社会は「個人」はどのくらい確立され教育されているのだろう
政治の世界でも議員の一番の権利行使である採決も、党議拘束で自己判断はできない
これは組織として当たり前のように感じる日本人は多いかもしれないが
アメリカでは無闇矢鱈と党議拘束はないらしい(トランプさん以後は怪しいが)
日本の権威に弱く世間の声に弱いメンタリティは、そのような人が多い中では気づかない
権威に弱いというのは一種、肩書に弱いということだ
肩書は判断材料の一つになるが、肩書がそれなりでも「なんだかなあ〜」という人は多い
ということで、気づかないでいるかもしれないが、ちょいと日本は心配な状況下にある
と田舎のおっさんが感じてしまうということ
(この愚痴が後の時代に、現在の空気感を表す資料になると良いな)
今日の関東甲信越は大雪の予報
愛知県の自分らの地区は雨だが、市内でも作手はどうなんだろう
同じ市内でも鳳来の奥の方も、こことは違う
以前、鳳来の能登瀬から通っている人がここまで出てくるには
2箇所大きく気候の変化があると言っていた
大野のあたりと長篠城のあたりで雪景色は変わるのだそうだ
今年は寒い
だが雪はそんなに多くない(このあたりは)
雪が無いほうが寒いかもしれない
会津若松に行ったとき、地元の人は雪の会津若松より東京の方が寒いと
こぼしていた記憶がある
雨でも雪でも外出するのは億劫だ
車の乗り降りが面倒くさい
なにしろ傘の処理に困る
先程はしょぼい雨が降っていた
テレビのニュースは雪の話ばかりだ
不意にアダモの「雪が降る」を思い出した
知ってる人も少なくなりつつあるような曲だ
日本語で歌われるシャンソン
昔はいい曲が多かったな、、
アダモ 雪が降る(日本語)1969 / Tombra Meige
おまけ
ドビュッシーの子供の領分に「雪は踊ってる」という曲がある
なるほど、雪が降ってる感じだ
Debussy, Children's corner 4. The snow is dancing
三島由紀夫の豊穣の海の三作目「暁の寺」
やっと再読できた
しばらく放ったらかしにしていたのでストーリーはうろ覚えだが
先日の「三島由紀夫VS東大全共闘」のドキュメンタリーを見た後なので
少し頑張って読んでみた
本は昭和46年発刊 第13版、341ページで価格は660円
信じられないくらい安い
このシリーズの本の装丁はとてもいい
本の内容自体よりも装丁の方が気にいっている
変な物語だな!が偽らざる印象
生まれ変わりの物語だからそう思うのではなくて
出てくる登場人物が変な人が多い
どこか意地が悪い様な、ひねくれている人物が何人も登場する
4部作だから第一作、第二作で登場した人物も出てくるが
みんな変な人たちばかりだ
「奔馬」では勲の恋人として登場し、暗殺計画を密告した槙子は
和歌の先生として再び舞台にあがるが、その役割は劇的というよりは
嫌な感じを醸し出すためのように思えてしまう
相性が良くないのは、登場人物に変な人が多いためだ
確かに饒舌な独特の濃厚さを持つ表現は独特でそれをあまり添削しないで
スラスラ書いていく能力は天才の為せる技とは感じる
でもどうしても、登場人物の変人ぶりについていけない
他の人の小説にも確かに変な人が登場する
変人のオンパレードのドストエフスキーでも、登場人物は彼の生を必死で生きている
ヘッセの作品も真面目ゆえに変人ぽい人物が
内的な成熟を感じさせる教養小説のように物語は続く
そして読んでるうちにその生き方に共感し自分と重ね合わせる
しかし、三島由紀夫はどこか人工的だ
生身の人間が感じる何かとは違う
目の前にあるのは彼の感じた「美意識・観念の世界」で
それが受け入れられないと、どうもしんどい
そういえば、やはり最後まで読めないでいる「金閣寺」にも
変な人物は出てくる
結局のところ、どんなに才能があろうが自分とは合わないな!
それをまたもや強く実感した
だが歳を重ねると物語全体の構成に関心が行くこともあるので
ここまで来たら最後の「天人五衰」も文句を言いながら読むことにするか