パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

最初によく考えておくべき(始まると止められない)

2022年02月08日 10時02分39秒 | あれこれ考えること

税金の使い方がおかしいとか勿体ないというのは国も市も同じで
国は余ったアベノマスクの処理に苦慮し
新城市は行政のミスで給食センターの実施設計をやり直すことになった

国は余って保存しておくだけでお金のかかる金食い虫を希望者に渡すべく募集をした
その結果、余っている8000万枚に対し37万件で2億8千枚の要望があったと報道されている

少し前、欲しい人を募集した時はあまり反応がなかったのが
今回は異様に多いのが不思議だが、どんな人が応募したのか興味がある
(どうやら自治体からも多かったようだが)

ところで昨日の国会で具体的にイメージしやすい質問が出た
8000万枚に対し2億8000万枚の要望ということは、2億枚が不足になる
すると要望に応えられる人と応えられない人が出てくることになる
この選別を誰が、どんな規準で決めていくのかを追求したのが
元官僚で現場をよく知っている立憲の小川淳也氏

この過不足を判断・処理をする官僚さんの人数は約30名
37万件を30名で処理するとなれば一人あたり1万件以上になる
これだけでどれだけの時間が必要か
それは非現実的なことではないのか、、
このマスクは配送だけで10億円がかかるとさえ言われているし
(勿体ない、、破棄すればもっと安く済むらしい)

そもそも不思議で仕方ないのが何故、受取人払という方法を取らないのだろう
ただで貰えるなら配送料くらいは支払う人は出そうなものだ

国も市も一旦決めたことはなかなか変更できないようだ
それが現実的に無理筋な事業とか結果が伴っていない事業でも
なんとか言い訳に近い理屈を考え出して、それを説明と称し
「今後は、、、」という言葉で逃げ切るのが定番のようだ


このように始まった事業はストップできないので
つくづく一番最初の時点での判断が肝心だと思われる
だが多数決の原理で国会も市議会も予算を検討し直すのは現実として難しい
だから最初の時点で「事業はこれこれの数字を下回った場合は中止する」
という規準を示しておくのが必要だと思う

これは我が市の「新東名高速バス 山の湊号」のことだが
確かに使い勝手が良くて、必要性を感じている人がいるのはわかる
だが、使っている人たちの利便性とかこれからの可能性の一言で
税金を使い続けて良いのかは大いに疑問だ
少なくともこれについては市議会でじっくり討論されるべき問題だと思う

しかし問題は、税金の使い方をそれほど気にしない人が圧倒的に多いという現実

面倒なことを考えたくないから議員さんに委任しているわけだが
それらが(最近は)機能していないのを見るにつけ
庶民は何をすれば良いのか、、と頭を抱えてしまう
(国に対しても同様だが)

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不公平は妬みや憎悪を生む

2022年02月07日 09時37分55秒 | あれこれ考えること

結局のところ、人は想像するだけではその実態は把握できず
自ら体験しないとわからないのかもしれない
格差は年末に炊き出しを手伝う人(野党の人々)と
平凡やらそれなりの生活をしている人(与党関係の人)とは
そ深刻さの認識は違うと思われる

統計は都合の良い数字を、それぞれの目的にそって提出できるから
実はそれほど当てにできないと思う
(個人の給与は下がっていると言う捉え方と、総支給額は伸びているという捉え方など)

以前にも取り上げたが、格差を受けた人がどのような気持ちになるか?
を政治家に実感してもらう実験が行われた(とうっすら記憶している)
あるパーティー会場でのこと、そこには豪華な食事が準備されている
ところがそれを食べることができるのは、じゃんけんで勝った人だけ
負けた人はお預け状態でが我慢しなければならないというルールだ

これが短い時間のことなら仕方ない、運が悪かったで済ませるが
この状態が長く続くと、お預けを食らった人たちは、何も悪くない
じゃんけんに勝っただけの人を恨むような気持ちになるという

これは良い悪いの問題ではなく、人にはそうした傾向があるということだ
何事も現実からスタートする
その現実は想像の中の現実ではなくて、実際に生きている人たちが
生身の感情をもって感じる現実で、これを理解しない限りは
社会の全体像を把握できないと思う(特に政治家とかそれなりの立場にひとは)

現実世界では他人の感情生活を経験をすることはできないので
それは想像力でカバーするしかない
それは共感という人に与えられた素晴らしい能力だ
歳をとると涙もろくなるというのは、その例だ

人の気持ち、感情を共感によって理解する
それは論理的な理屈で人を理解するのと同様に重要なことと思われる
確かに感情を伴う理解は時として大きな勘違いや間違いを起こす
だがそれを過度に恐れて、抽象化された理屈のみで動く世界は
それもまた怖い世界のように思えてしまう

ということで、他人に対する想像力を育むと思われる
一見役にたたないと思われるリベラルアーツ的な教育は、とても大事だと思う
この分野が最近、おろそかにされているようで少し不安

いつもの、まとまらない話

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イマジン

2022年02月06日 09時19分21秒 | あれこれ考えること

自分は見なかったが北京オリンピックの開会式に
ジョン・レノンの「イマジン」が使われたようだ
この曲は繊細な独り言のような音楽と自分は感じているが
歌詞の内容が理想主義的ゆえに、こうした公の場所では使いやすい

だが現実はオリンピックはスポーツの祭典と言うよりは
政治的な国威高揚の一つの手段となっていて
「国境なんて無いと想像してごらん」は非現実的なものとしか思えない

国境がなくなり、みんなが仲良くなる世界
それは理想としても、いつそれがなされうるかは
根本的なところ(地政学的に)に難しい問題があると思える

国境のない世界、それは資本主義が完成し、いきつくところまでいった後に
社会主義に移行するといった理想主義的な考え方に似ている気がする
(自然と移行するか、革命によって移行するかはあるにしても)

最近はより一層、自分たちの国家とか民族のアイデンティティを
意識することが多くなって、分断とまでは言わなくても
自然発生的なこうした傾向は止めようが無い気もする(それは文明の衝突か)

ただみんな仲間という意識は、多少は教育とか環境で補えるようだ
インドにはカースト制があって、他の階層の人たちとは交わりにくいらしい
ところが子供の頃にいろんな階層の人と混じって教育された人々は
成人になっても自らの出自のカーストを意識せずに交流ができるらしい

つまりは、差別を自制する精神は、ある程度は教育とか訓練によって
変えることができるかもしれないということだ
そうなるためにはまずは知の分断(教育の分断)をなくさねばならない
残念ながら知の分断は経済の分断から生まれる確率が高い
経済の分断は知の分断のみならず、個人の体験の絶対量の差も生み出す
(コンサートや展覧会に行ける家庭と、行ったことのない家庭などの)
するとそこから生まれる個人の自然発生的な発想は
実は安易に一般化できるようなものではないと分かる
つまり「自分と他人」といった関係性だ
自分が当たり前思っていたことが、当たり前でない世界があるということ
それを認めるのは訓練とか慣れだと思う

何やら面倒な話になってきたが、現実的な視点からすれば「イマジン」
の世界観は大声で謳うそれではなくて、独り言のような世界観と思えるということ

「イマジン」は大声で歌いにくい
ジョン・レノンの曲で大声で歌えるのは「パワー・ツー・ザ・ピープル」とか
「ハッピークリスマス」のコーラス部分だ
あれらはみんなで歌うにふさわしい

「イマジン」は夢想家の独り言のような歌
それは実現されないゆえにとても大事なものの世界
でもこれがあまりにも大ぴっらに唯一無二の価値観として歌われると
どこか恥ずかしく思えたり違和感を覚えるのは、、偏屈すぎるか




 

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「熱情・敬意・言葉」

2022年02月05日 09時27分08秒 | あれこれ考えること

まだ頭に中にくすぶっているので、相性の良くない三島由紀夫関連の話題を

先日見た「三島由紀夫vs東大全共闘」の中で印象に残ったシーンがある
敵対する集団の中に乗り込んだ三島由紀夫
予想に反して言葉のバトルはお互いに敬意を払う形で行われた
だが会場の全員がそうばかりとは言えない
「三島をぶん殴れると思ったからここ(会場)に来た」
そう声をあげた人物もいた
確かに、そう思うのは無理もない
自分もいつか混乱を招くことになるのではないか
そんな不安を覚えながら見ていた

ところが、そこからの展開が意外だったというか感心した
壇上の全共闘のスタッフがそうした声を咎めたのだ
それは一歩間違えば内輪もめにもなりそうな、怒り方だった
瞬間的であったが極めてテンションの高い怒り方で
その後、その手の馬鹿な声は出なくなるようにさせるものだった

学歴社会を肯定するわけではないが、やはり東大に来るような人は頭がいい
(知り合いに東大出身の人がいるが、彼もどこか違う)
抽象的な概念を理解し言語化できるし、読んでいる本も普通とは違っていそう
「鉛筆はそこにあるだけでは形を持った物体に過ぎない
鉛筆はその機能をもって、名付けられて初めて役割をはたす」
と言ったような、そんなことを知って実世界にどう関係するのか?
と思われるような抽象的な話が、真面目に語られた
(それは社会との関係の中で語られたが)
そしてそのバトルは両陣営の頭のいい人の間では充実感をもたらすもののように思えた

このバトルの映像で明らかに今と異なるのはタバコだ
三島由紀夫も全共闘の連中もタバコを吸っている
まるでそれが自由の証のように
持参したタバコが切れて、どちらかが相手にタバコを融通したシーンがあったが
これはいいシーンだった

このドキュメンタリー映像を見て、不意に
「両陣営は共通の敵と戦っているのではないか」
との思いが頭に浮かんだ
ただ表現方法とか打開策の違いだけで、実際は同じ敵に向かっている
そんな根拠もない思いが頭に浮かんだ
その共通の敵とは、もしかしたら今の世界にも、
いや今の世界にこそ多く存在しそうな「無関心」に対する焦り
何かを感じること、意識されること、そしてそこにとどまらず行動につながること
うまく言えないが、そうしたものに対する怒りとか焦りがそこにあるのではないか

三島由紀夫の場合、彼の意識の中に天皇という存在は大きな意味を持つ
個人としての天皇と機構としてのそれは彼自身の中で消化できたのか
かれは学業が主席だった褒賞として高校時代に天皇から時計を受け取ることになった
その式の間、3時間も天皇はじっと動かず座っていたことが彼の記憶の中に深く刻まれた
これは当事者とか、そこにいた人しか実感できない内的な出来事だ

本を読むと印象は事断片的になるが、映像も同じだ
印象に残ったのはタバコ、身内に対する怒り、三島の時計のエピソード
そして共通の敵、、といった印象だ

このドキュメンタリーの最後に「熱情、敬意、言葉」の必要性が語られる
確かにあの会場に存在していたのはその3つだった

だが今の社会、それらが果たされる場所が存在するのだろうか
議論はまるで裁判のように白黒、勝ちか負けかだけを競うようになり
相手の言い分を少しでも認めることは、まるで即負けのように思ってしまう風潮
自分と同じ様に真面目に考えたり悩んでいるかもしれない他人に対する敬意の不足
それを生み出している文化の衰退
それは、ある人にとっては絶望に結びついてしまうかもしれない

不意に、昔よくわからなかった三島由紀夫の豊穣の海の最終本
「天人五衰」を読んでみようか、という気になった
今なら少し分かるかもしれない!と思いつつも
相変わらず相性が悪くて同意できないかもしれない
だが、読んで見る価値はありそうだ
今、「天人五衰」は本棚にひっそりと隠れている

ところで、アマゾンのAI機能を使っても最近の自分の購入歴から
「天人五衰」をお勧め本として提示されることは無いだろう
なんだか、それも嬉しいような気がしている


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「寄付した」と考え直すこと

2022年02月04日 08時45分52秒 | 徒然なるままに

人は得したよりも損したほうが心理的にきついらしい
買い物で〇〇円得したよりも、他所で買えば〇〇円安く買えたことを知ると
がっかりするどころか、ちょっとした怒りさえ覚えそうになる

自分の判断は損することになりそうで、なかなか踏ん切れないことがあった
それは土曜日(明日)豊橋のライフポートで行われる大阪フィルのコンサートだ
愛知県でも連日新型コロナの陽性者が半端じゃない数字になっている
それを踏まえ家族のことを思うと、多くの人の集まりそうな会場に出かけるのは
やめた方が良いと思う
ここ数日迷っていたが、今回もひと月前のしらかわホールのコンサート同様に
諦めることにすると家族に告げた(家族はホッとした)
だが、チケット代を損してしまう、、という被害者意識を捨てさることは難しい

勿体ない、、この感情を何らかの理由で自分自身を納得させないとやりきれない
そこでいろいろ自分自身を納得させるためいろいろ考えた
チケットの払い戻しはできるのか
だがこれができても自分は良くても、オーケストラの人たちとかチケットを扱う人たちの
利益が減ってしまう
今まで自分たちが楽しんでいられたのはこれらの人たちのおかげだ
するとそれもどこか心苦しい

そうだ、寄付したと考えれば良いのかもしれない!
不意にひらめいたのがこの考え方だ
これなら自分自身も納得させることができるかもしれない
良いことをしたと自覚することは、損したと思う気持ちを薄めることができる

確かに生で大音響を浴びる快感とか、会場での静寂の緊迫感は
そこでしか味わえない貴重な体験だ
その機会を失う判断をしたわけだが、疑似体験は録音媒体でできる
前回のしらかわホールのプログラムを自宅のオーディオで再現したように
今回のラフマニノフのピアノ協奏曲2番、ドヴォルザークの新世界は
どちらも家にあるので、少なくとも曲は聴くことができる

ということで、このように自分自身を納得させたら、少しばかり気が楽になった

それにしても、いちいち屁理屈を付けて自分を納得させないと前に進めないのは
面倒な性格だな、、と自虐的に思う(仕方ない、それが自分だ)

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言葉によるバトル「三島由紀夫VS東大全共闘」

2022年02月03日 10時01分34秒 | あれこれ考えること

大して期待していないで入ったNetflix
プログラムを見ると思いの外興味深いものがある
「なぜ君は総理大臣になれないのか」はその一つだが
他にも「三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実」なんてのが目に入った

三島由紀夫は相性が良くなくて共感することも少ない人物だが
自分らが若いときに行われた、その時代を反映しているような出来事自体は興味がある

この三島由紀夫と東大全共闘の対談は、全く違う価値観の両者が言葉によるバトルを
広げるもので、当時の三島は「楯の会」を設立していて、全共闘もかなり過激な
行動をとりがちな存在だった
大勢の学生の中に一人で乗り込んだ三島由紀夫も度胸があるが
実際は何かあるといけないので楯の会のメンバーも潜入していたらしい

なかなか緊張感のあるバトルだが、ときに笑いも漏れる
学生側がつい敵である相手を「三島先生」と呼んでしまったのは、
彼らのプライドからすれば恥ずべきことだったかもしれないが
話の流れを見ているとそう呼んでしまうのは
無理のない必然のような気がした

言葉によるバトルは相手の尊厳を認めることから始まる
三島も「諸君らの熱情は信じる」と言ったのはこのバトルだったかな

だが残念なことにバトルの内容自体はこちらの知識不足で、その抽象的な内容はわからない
暴力の良し悪し、自分と他者との関係
まるで社会学か哲学分野のような話が展開される
三島はサルトルの考え方が大嫌いだという
自分と他者との関係は、実存主義的な解釈のもとにあるとする西欧的な考え自体が
気に入らないようだ

三島由紀夫の言い分は、自分には少しわかりにくい
急にエロティックなどという(価値観を持つ)言葉が出てきて
どの文脈でその言葉が出てくるのかさっぱりわからない
それは彼の閉じた世界観の中から出た言葉の様に思えてしまう
彼には確かに一つの確固とした価値観とか美意識がある
それは哲学的とか科学的に実証されるものではないようで
彼の感性に共感する人しか持ち得ないようなもののようだ

とまあ、あまり良くわからない話が続くが現時点で最後まで見ていない

だが、それでも驚くのは両者が「言葉によるバトル」をしようとしたことで
空回りのバトルであったとしても、そこで感じられる熱量とか真剣さの度合いは
現代社会の肝心なことを言葉でバトルしない社会と比べるとぜんぜん違う

物事を週刊誌の見出しで把握するように簡単に理解すること
良し悪しが情報の絶対量に支配されがちなこと
一方的に論破と断定する一部の人たち
こうした現在の世界と比べると、言葉によるバトルを行い生の声を聞けた時代は
今よりずっとエネルギーに溢れた時代で、後の高度成長を感じさせる

この熱量と比べて今の時代は大丈夫なんだろうか?
熱い時代を(自分は参加しなかったが)見てきたおっさんは
少し心配になってしまう



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サッカー、サウジ戦と日本社会

2022年02月02日 09時34分19秒 | あれこれ考えること

吉田と富安がいないから、中国よりはずっと攻撃に迫力のあるサウジ戦は心配だった
先の中国戦では板倉、谷口も悪くなかったので多少期待はしたが
問題は点を取れないことだ
負けないことを優先するか、相手よりたくさんの点をとって勝ちを目指すか
このあたりは考え方の相違ですべては結果が決める
日本は今のところイタリアのように負けないことを優先しそうな国民性?
韓国は勝ちを目指す
だから韓国には良いストライカーが育ち、
日本はゲームに責任がはっきりしないMFが育つ

昨日のワールドカップアジア最終予選の対サウジ戦
結果は2−0で予想外
スタメンは中国戦と同じ大迫・伊東・南野のFW陣で
日本のサッカー専門以外のメディアが騒いでいるほど半端ないものではない
このチームはむしろ遠藤航、守田、田中碧のボランチと後ろが特徴で
点が取れるかが心配だった

前の試合と同じメンバーというのは安定しているかもしれないが、期待感はない
選手のコミュニケーションとか意思疎通というが、感覚的にあう選手同士
というのはあるもので、右サイドの伊東と酒井宏樹は感覚が合うようだ
左サイドの南野と長友は、ビッグネームだがどこかしっくり来ない

南野は存在感がなく今日もだめか、交代があるかも、、などと考え始めたとき
南野が先制点をあげた
これだからサッカーは難しい
得点自体が少ないサッカーというゲームは、点を取ることができる選手は一種の才能だ
FWはそれまで何の活躍をしていなくても、ワンチャンスを決めるとヒーローになれる
南野の評価はその得点のために良い方に行きそうだが、セルジオ越後さんが辛口で言うように
それほど良いものではなかったと思う

話は変わるが、日本社会はスペシャリストを育てるのか?
それともジェネラリストを育てるのか?
どっちなんだと思うことがある
現場で経験を踏んだ現場好きな人も結局は総合職の力を求められる
これはサッカーにおいてはFWも守備能力を求められるのと似ている
中継の解説でもFWの献身的な守備という言葉をよく耳にする
確かに現代サッカーではその部分は必要だ
だが、これでFWを評価するのは間違いだと思う
FWの評価はあくまでも結果、つまり得点だ

点をよく取る選手は相手にとって脅威だ
だから彼をフリーにしたくない
そこで彼に神経がいき、彼の近くに陣取る(高い位置をとれなくなる)
するとそのFWは走り回って守備をしなくても
相手の攻撃の人数をかけさせないことになるので
その時点ですでに何らかの守備をしていることになる
こうした考え方をするようにならないと、、日本はいつまでも
一生懸命頑張っているが、、点は取れないということに落ち着きそう
(と思えてならない)

これは決してFWが守備をしなくていいというのではない
あくまでも自己の適切な判断で行うべきだと思うし、
守りはFWが特殊な能力が要求されのと同様に守りの能力も要求されるのではないか
その点では最近の富安は一人の存在感が大きい

それでも、とりあえずは良かったサウジ戦
だが日本のサッカーは厳しい戦いで、新しい戦力を確かめられない傾向が続く
勝ちにこだわらざるを得ないと安定した(熟成した)メンバーの器用になる
だがそれが続くと、、遂には停滞が訪れる

これなんかは社会でも似たようなものだと感じる
新しい試みは必要なのだが、新しい試みのように見せて
旧態依然の仕事をしようとしている社会(これは何を暗喩しているか?)
思いきれないのは国民性か

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一気読みした「資本主義、社会主義、民主主義」(2)

2022年02月01日 09時24分29秒 | 

アマゾンのレビューでは(1)ほど面白くはないとされていたが
個人的にはこちらの方が興味深くて一気読みしてしまった
「資本主義、社会主義、民主主義」(2)ヨーゼフ・シュンペーター

著者シュンペーターの名は「創造的破壊」で知られる
それは(1)で紹介されていて、資本主義の発展は絶えざる現状の破壊
イノベーションによってもたらされるというもので
NHKの「欲望の資本主義」でも紹介されていた
だが、記憶に残っているのはもっと別のことで
資本主義の(経営者の)恐れるものは、次の時代が科学等の発展でどうなっていくか?
という未来への不安と、競合他社がどのような手を打ってくるか?
との不安があるという点だ

後者の恐れは現実的で、経験とか想像力のある故だと思われるが
この現実に即した発想とか分析は(2)でも発揮される
特に政治の実態、有権者が大きなテーマには無関心になる傾向や
ことにあたる人の数が多くなると責任感が希薄になるとか
政治は短期の目標に支配されやすいとか
庶民の声は反映されない代表制民主主義の限界
(実態として声は議員が発するものしか存在意義はない)
といったこれらのことは、今まさに起こっている我が国の姿を彷彿とさせる

読書が断片的な印象の集合になるのは仕方ないと最近は開き直っているが
悲しいかな他人に説明できるほどこの本を読み込めてはいない
ただ面白かったという実感は確かに残っていて、
そのページは印もついているから読み返すこともできる

(難しい)本はわかりやすく整理された解説書を読むより
とにかく原典に当たれ!とする考え方がある
分からないために断片的な印象となったとしても
その方が得るものは大きいとしている

その気持はなんとなく分かる
大きな山に悪戦苦闘しているときのほうが、景色を眺めているよりは
充実感を感じるようなものだ

それにしても、社会主義という概念とか、それが生まれた必然性は
もしかしたら日本は根本的に理解できていないのではないか?
と不意に頭に浮かんだ
「輸入された」社会主義という言葉
実感としてそれが人の社会には必要かもしれないとする西欧の段階に
至っていないような気がする
それは社会主義が資本主義と比較して劣っているというより
社会主義は端から否定的に捉える先入観が大きく影響している気がする

この半ば定番化した(固定化した)捉え方を変えるのは
とんでもなく難しいように思えるが、
それができないのは、個人としての人間の内的な試行錯誤(例えば前提を疑うとか)
がなされていないからのように思えてしまう

ということで、いつもの面倒くさい話


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