パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「美しい5月に」と「ガニュメート」

2024年05月10日 19時15分48秒 | 音楽

晴れると湿気もなく新緑もくっきり映える5月
日本だけでなくドイツでも5月は特別のようだ
ゲーテには「マイリート」(マイは5月 リートは歌)という詩があるし
シューマンの歌曲集「詩人の恋」の一曲目の「美しい5月に」は
ピアノ伴奏がとても幻想的でうっとりしてしまう

この歌曲はピアノ伴奏が効果的で歌よりもピアノ伴奏を集中して
聴いてしまいそうになる
それはこんな曲

Dichterliebe, Op. 48: No. 1, Im wunderschönen Monat Mai

ピアノ伴奏がものすごく魅力的で自分が大好きな歌曲は他にもある
それは花々のむせ返るよう香りに包まれて呆然として憧れを感じてしまう
ヴォルフのゲーテ歌曲集のなかから一曲「ガニュメート」だ

Wolf: Gedichte von J. W. von Goethe Published Vienna 1890 - Ganymed

ほんと5月は良い季節
ただし、晴れて湿気がない時は


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3分間

2024年05月10日 10時38分38秒 | あれこれ考えること

3分間は長いか短いか?
ボクシングの1ラウンドは3分だ
素人が試しに戦ってみると、その3分はとても長く感じるようだ
グラブをはめた腕はあっという間に疲れで重くなって
パンチを繰り出すどころではなくなって
しかもあちこち動くことになるから、呼吸も楽ではない
つまりは素人にとって3分は短いとは言えない

ところが反対にあっという間に終わってしまった
と感じることも世の中にはある
3分間で話をまとめて発表してください!
という注文を素人が実践するのは難しい

話を的確に3分間にまとめるのは技術と慣れが必要だ
素人は例えば怒りの感情に襲われてしまうと
そこから派生する様々なエピソードを語りたくなってしまう

こうした例は市内を循環して行われる市長との意見交換会でも見られる
挙手して意見・質問をする人は(特に時間制限はしていないので)
自分のペースで話す
残念ながらそれは上手な話だとは言えないことが多い
話が横道にそれたり、質問なのか意見なのか不明な発言が続いたり
そもそも論旨がよくわからない、、ということも多い
それは意見を聞く立場の行政の人でない会の参加者でも
もう少しわかりやすく論点を絞れば良いのに、、と思う

だがこれが現実だ
みんながみんな上手くやっていける訳では無い

あらかじめ時間制限が伝えてあったかどうかは知らないが
水俣病の患者・被害者らと伊藤信太郎環境相との懇談の際に被害者側の発言が
3分をオーバーしたところでマイクを絞って遮られた報道を知って
直感的にこれは酷い!と怒りを覚えた

3分がそもそも適切な時間なのか、それで足りるのか疑問に思うし
3分で充分とする判断の根拠は、あまりにも発表慣れした人に照準を合わせていないか

それは素人には無理なところもある
仮に時間が長くとれないとしても、こうしたいきなりの無慈悲な行動は
もう少しやりようがあったのではないか
聞くところによると、話を遮ったのは大臣が乗る電車の時間に合わせるためだったとか
こうした話を知るだけで、この集会がどのくらいの意味を感じていたかが想像できる

それは単に被害者の意見を聞く機会を設けたという事実だけが大事であって
話の内容は関係なさそうだ(そう思われても仕方ない)

怒りの矛先はマイクの音量を絞った官僚に向けられているが
中にはそれをせざるを得なかった官僚に同情するひともいるようだ

なんだかなあ、、、
どうすべきだったか(3分間の徹底周知、残り時間がわかるようにする)
という真面目過ぎる議論より
もっと常識的に人としての視点で対処してほしかったな、、というのが実感
なんかみんな余裕が無くなってきているみたい



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せっかちさん

2024年05月08日 08時54分12秒 | ダイアリー

端午の節句前後は5月人形の飾りと片付けに時間をかける
本来は妹の息子様に母が購入したもので
飾る場所は妹の家のはずだったが、事情があって狭い家に住んだので
飾ることはできず、ずっと我が家で飾っていた

今年、その時期がやってきた時、甥に手伝ってもらうように声をかけた
手助けになるだけでなく、甥とおばあちゃんの共同の作業は思い出になるだろう
と依頼したのだった

飾る時は、滑ったころんだの状況が発生した
箱から出すもパーツを出さないまま箱を閉めて
箱が飾り棚の土台になってしまってから気づいて、土台のやり直しとか
旗竿の付け方に甥は苦労したり、、つまりは予想通りにいかなかった

このドタバタは実は望んだものでもあった
また来年も、、という可能性が少なくなりつつある今
印象に残る時間は甥にとっても自分にとっても貴重だ

甥はこの作業を終えた時、楽しかった、、と告げた

五月人形を仕舞う場所は2階の納戸
重くはないが嵩張る箱を運ぶのは面倒だ
片付けも甥とすることになっていて今日も来て貰う予定だった

ところが性格というのはどうしてもでてしまうもので
9時半に甥は来ることになっているが、その前から同居人は
箱を持ってきて片付けようと準備を始める
「〇〇ちゃんといっしょにやろう!」
一緒に作業をする意味をあまり感じていない同居人は
眼の前にある作業を早く片付けたくて仕方ない

その手際の良さを見ると思わず笑えて仕方なかった
相変わらずせっかちな人だ
家のあちこちにあるひと月ごとのカレンダーは
月の最終日にはもう翌月のカレンダーになっている
そうでないと気分が悪いと感じるので
「まわしが良い」の当たり前になっているのだ

このまわしの良い、段取りの良い人のお陰で家は回っている
眼の前のことにしっかり対処して行く
せっかちな人は心配することも多いが、ボケていないのがありがたい

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デモは無意味な行為か?

2024年05月07日 09時15分52秒 | あれこれ考えること

「早寝早起き朝ご飯」が健康的な生活をするコツだそうだ
田舎生活の自分は同居人の協力もあってこれは達成できている

SNSと距離を持って接するのが健康的な精神生活をするコツとの考え方がある
確かに、特に夜のX(旧ツイッター)には少しばかり
感情を煽るような投稿が見られる
夜の魔力がそうした傾向に拍車をかけると思われるが
昨日目にした投稿はちょいと気になった

それは「デモをしても何も変わらない現実がある
だからデモすること自体は無意味だ」という投稿について
様々な意見が飛び交った事案だ

確かに過去に大きなデモがあっても安保関連法案は国会を通過したし
反原発デモも具体的に何かを残したとは言えない
厳しい見方をすれば効果はなかったかもしれない

だがデモに効果がないと宣言する人はデモを実体験して挫折感を味わった人
というより、冷笑的にデモを見ている人なのではないかと思う

個人のことを言えば自分はデモに参加したことがある
シールズが有名になった安保関連法案の時、時々開催される反原発の運動の時
地元では少しばかり評判の悪い産廃業者の進出に対して

そしてデモしている視点からその行進を見ている人を眺めると
とても同じ空間と時間を生きているとは思えないものだった
デモを見ている人は覚めている
いやそもそも関心がない様に見える
もしかしたら彼らはデモする人を過激な人たちと見ていたかもしれない
それは確かに過激な言葉を発しての行進だったせいもある
それらの言葉を発しながらの行進は「ちょっと違う」という感覚と
恥ずかしさがあって全面的に賛同できるものではなかったのも事実だ

デモをしても結果的に何も変わらない、だから無駄だ!
と考えている人には聞いてみたいことがある
「ならば、どうすればいいと思いますか?」
これは選挙時に「自分一人が投票しなくてもしなくても何も変わらない」
と考えて投票しない人に対して
「投票しなかったあなたの意志はどのように反映されると思いますか?」
と聞いてみたいことと同じ意味合いだ

効果があろうがなかろうが、反対意見の存在を可視化できることは
意味あることだと思う
結果的にデモが効果を発揮しなかったとしても、反対している人の存在が
概念的だけでなく実際に人数として可視化できることは
政治家にとっては少しばかり怖いことなのではないのか

デモをしない、投票にいかないひとの行動パターンは
イノベーター理論における先頭を走る人ではなくて、
みんながするようになって初めて追従する人たちではないのか

みんなが食べてるから食べる(インスタ映えする食べ物)
みんなが読むから読む(ベストセラー小説)
みんなが写真を撮るから撮る(定番の角度からの絶景の写真)
みんなが応援するから応援する(タレントさん)

それらは自分で考えて行動しているようでも
実は販促活動に支配されているに過ぎない面もある
政治的・社会的にはプロパガンダに侵されているといえるかもしれない

実施的に効果がなかったデモだとしても、デモされる側が一番ありがたいのは
デモがないことだ
デモは効果がないという言い分は、こうしてデモをしてほしくない人たちに有利に働く

「デモに効果がないとして無意味」と冷笑する人たちは
不満の少なくない現状を肯定しているのか?といえば
おそらく大した考えがあってのことではなくて
現状に不満があっても面倒だから何もしない
そしてそれを正当化する理由を探しているだけのように思える

といっても反対意見を可視化するためにデモに参加しようとか
自分の意思を政治に込めるために投票に出かけましょうというのは
意識高い系の考え方であったり、どこか分別臭くて
それゆえに行動したくないと思う人がいるのはなんとなく想像できる

でもそれでも、まずは出来ることからする
出来る人からする、、
無駄でも、無力でもとにかく何かしてみる
そうしたことが大事だ!と今の年齢になってそう思う

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平和な1日

2024年05月06日 10時07分49秒 | ダイアリー

子どもの日の昨日、ちびっこたちが集まった
まだ0歳の丸々と太った男の赤ちゃんと
我が家に来ても以前はお母さんお父さんの影に隠れていたお兄ちゃん

そのいとこに当たる年長組の男の子と
幼い頃のお母さんそっくりなマイペースな女の子

子どもたちは年齢に近い子同士は無条件に仲良くなれるようだ
彼らに共通していたことは部屋の中を歩き回ることだった
和室の2部屋と廊下とリビングは彼らにとってお遊びの場所
それこそ何回もぐるぐると歩き回る
久しぶりに会う自分の手を引っ張って何度も回る
まだ体のバランスが悪くて転んでしまいそうと心配するが
そんなことはお構いなしで手を引っ張る

2階に上がって、前に来た時に面白がった無双窓から顔を出して
三歳の女の子が「ママ!と声を挙げる
覚えていたんだ!と驚きを覚える
彼女が覚えていたのはそれだけではなくて、ベットの端を使って
体を一回転させることもあった

見ていても疲れるようなちびっこたちの動き
視線が低いから普段の生活では見逃すようなものも手にして
遊びの道具にしてしまう

一通りどころか十分に遊んで、みんなが写る記念写真を撮る
こうした写真は最近は最後の機会かもしれないと思う
撮影者が変わって同じアングルから撮影する
赤ちゃんやちびっこたちはカメラ(スマホ)の方を見ていない
手を添えて顔が写るようにする
最近は連写機能があるのでそれを利用して撮影する

あとでiphone同士のairdropで写真を受け取る
確認するとなんのことはない、大人もうまく写真に写っていない
目をつぶっている人がどの写真にもいる

平和な1日
当たり前のように存在するこうした1日はすぐに忘れられてしまうが
残り時間の少なくなってきた身にはとても貴重に思えてしまう

昨日は予報では暑くなるとあったが、この地区は空気が乾燥して
ひんやりとして新緑が際立つ絶好の気候だった

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昔の物価

2024年05月05日 09時11分03秒 | ダイアリー

520円、最初は間違いだと思った
特に何かを追加して頼んだ覚えはないから480円だと思いこんでいた
レジの段階で「間違っている!」というのは体裁が悪いので黙って払った

その数日後、知人とこの店でお茶をしてレシートを見ると
普通のコーヒーが520円と印字されていた
そうか、コメダ珈琲も値上げをしたのか!とやっと気づいた

コメダ珈琲がこの地に出店した時はコーヒー1杯は430円だった
それがウクライナ戦争後に480円になって
ようやくこの価格に慣れてきたと思ったら今度は520円
世の中の値上げの勢いは凄い
毎朝のヨーグルトは税抜きで119円などというのは、もはや遠い過去の話
店によっては税込みで1個200円近くする

学生時代、喫茶店でのコーヒー1杯は120円くらいだった(と思う)
岩波文庫の星一つは50円
そして大学の授業料は一月1000円だった
在学中にこの授業料が3倍になると政府が決めて、それに反対する運動が起きた
ノンポリだった自分は3倍になるのは痛いが
そもそも月1000円は安すぎるから、なんとも言えないな、、などと
お気楽に考えていた

歳を取ると食べる量も減ってくる
値上げがあっても購入量が少なくなっているから
出費はそんなに変わらないかもしれない
それに、物欲が無くなってきつつある
贅沢するのはせいぜい本くらいなもので、それも読むには時間がかかるから
実質的には贅沢とは言えるほどじゃない

コンサートは理由あって長い時間、家を空けるわけにはいかないし
出かけることが億劫になって、つまりはだらんと家にいるだけになる

今年のGW、結局音無しの構え
怠惰な生活はホント身についている
それにしても、昔はいろいろ安かったな、、と今更ながら思う



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普通は品性がそれにストップを掛ける!

2024年05月04日 09時19分39秒 | あれこれ考えること

Youtubeで先日の衆議院補欠選挙、東京15区の話題になっている選挙妨害
(演説妨害)のシーンを見た
なるほど、酷いものだ!  それが第一感だった

立憲民主党の酒井菜摘さんの応援演説に小川淳也さんがマイクをもった時
明らかに邪魔しようとする意図が感じられる大きなマイク音が聞こえた
「つばさの党」のスタッフによるものだった
「消費税上げるんですか?」「消費税上げるんですか?」としつこく繰り返す
自分の声さえ聞き取れないような状況に一瞬困惑を覚えた小川さんは
覚悟を決めたように、いつもとは違って大声でシンプルな演説に切り替えて
「頑張ろう!」と自らも鼓舞するように絶叫する

その後で、選挙妨害について批判はせずに「今日は勉強になった」
「良い試練になった」と苦笑しながら言う
彼らしい捉え方と笑いを覚えたが、こうした明らかに妨害と言えるものを
質問する権利とか表現の自由との言葉で正当化するとか
それを認めて楽しんでいるというのは、どこか違っていると思えて仕方ない

昔のわが町の市議会議員選挙は、近所で数人立候補したために選挙カーは
賑やかなことになった
ある候補が訴えながら走っていると別の候補と鉢合わせになることはザラにあった
その時は、片方の選挙カーは一瞬マイクの音量を下げてから
「〇〇候補さん、健闘を祈ります」とのメッセージに切り替えた
するとそれに応えるようにもう片方も同じ言葉をかける

その言葉が本音かどうかはわからない
だが、それは社会人として礼儀のようなものと思われた
善意に解釈すれば、自分と同じような熱い志をもって立候補した人物は
考え方は違うかもしれないが尊敬に値する人物と想像して
こうした戦いの相手にもエールを送ることができたとも想像できる
そこまでは考えないとしても、単なる敵としてしか見ないことはなかったようだ

ところが先の例に代表される現代は、世の中は敵と味方しか頭にはないかのようだ
相手が困ることも、そして自分がされたら困ることも、何々の自由の概念で
正当化されると思っている
でもそれは違う
仮に〇〇の自由があったとしてもそれを行使しないのが品格とか人間性というものだ

何を言うかは知性、何を言わないかは品性という言葉があるが
あのようなことをする時点で立候補する資格さえ無いように思えてしまう
そしてそれを面白がっている人も自らの品性を顧みてほしい

ところで現代は左翼・右翼の区分よりも、強者寄り・弱者寄り
あるいは権威寄り・反権威よりと区別したほうが良いのではないかとする
考え方があるようだ
確かにそうかも知れない、、と実感する
そして何でも敵・味方に区別する世の中、、、それはどうなんだろう




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「努力について」の投稿、三度目の登場

2024年05月03日 08時55分20秒 | あれこれ考えること

今日は憲法記念日、以前憲法についてある本を読んで刺激を受けたことがあって
ここで取り上げたことがあったが、それがなかなかのものだったので
今日は三度目になるが引用して取り上げることにした
それは団籐重光氏の「法学の基礎」の最初の方にある「努力」の言葉のこと

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の普段の努力によって
これ保持しなければならない【憲法12条前段】

この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得
の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び
将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
【憲法97条】

団籐氏は「努力」という言葉が二度も使われていることに注目し
基本的人権は、「与えられたもの」ではなく、われわれ人類が努力によって
作り出したものであり、今後はさらに努力を重ねることによって、さらに発展させて
いかねばならないと説明している

憲法などと堅苦しいものには縁がなかったが、この部分を読んだときには
素直にその通りだ、、と納得した

更にこのようにも記している
憲法の規定の上では、将来については「保持」というやや消極的なことばを
使っているが、その精神からいえば、単に保持するというだけでなく、さらに
拡充し、発展させ、また単なるお題目ではなく現実的なものとして行くことが
当然に、我々に「課せられている」ものと言わなければならない

この方団籐氏は法は静的なものではなく、動的なものとしている
解釈主義ではなくて、実情に合わせて努力して変更すら考えていくのが
法の基礎としている(と自分は解釈した)

話は変わるが、フランス人は(ドイツ人も)バカンス等の長い休日の権利を得ている
それを日本人が羨ましそうに愚痴をこぼしたところ、フランス人がつぶやいた言葉を
X(旧ツイッター)で見かけ、とても参考になった
(どこかに残っているはずと思ったが見つからなかったが)

それは、長いバカンス等の権利は上から与えられたものではなく
国民が犠牲を伴いながらも手にしたもので、日本のように何もしないでいた訳ではない
ときっぱり宣言していることで、つまりは不断の努力のおかげだとしている

最近のXはなかなか厳しい内容の投稿も多く、外国人の似たようなこんなのも気になった
お給料も安い、なのにデモやストライキもない。
それどころか国民の半数が選挙にすら行かないんだぜ、ビックリだよ。

西欧的な思考自体が良い悪いは別として、世界は日本人をこのように見ているのかもしれない
つまりは努力が足りないと見ているのだ

最後の最後になって(痛い目をして初めて)日本人は気づいて、なんとかする!
というのは実は希望的観測に過ぎないのかもしれない
最後の最後になってしまえば何かをする権利すらないのかもしれない
というのが歴史とか現実社会から気づくことだ
不断の努力というのはものすごい努力ではなくて、ごく当たり前のことを
継続的に行うと言うことなのだろう

ところで「努力」という言葉は現在の上皇さまもかつて使っていた
それは平和についてで、ある人のツイッター(2017年)によれば
昨日の天皇陛下と安倍首相の言葉の差。反省表明の有無とかよりも
日本の平和を築き上げた基盤が「戦後の国民のたゆまぬ努力」という前者と
「祖国を思い命を捧げた皆様の犠牲の上」という後者の根本的乖離が気になった
戦争による死は犠牲者であって、英霊の魂とか散華とかの言葉で
美化されるべきものではないと思う

特に分別臭くなることはないと思うが、それでもダメなものはダメとする
自然法的、倫理的な発想がもっと社会に溢れている方が良い世の中だとは思う


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「いちご白書」を思い出した人がいた

2024年05月02日 09時47分30秒 | 徒然なるままに

アメリカのコロンビア大学ではイスラエルのやり過ぎに対する学生のデモが
起きてそれを鎮圧するために警官が突入したニュースがテレビ・新聞に
報道されている

デモが学生の自然発生的なものか、それとも良からぬ人たちの仕業なのか
不明らしいが、心情的には若い人が社会的な不公平感に対し声を挙げるのは
理解できるし、デモが前者の結果であったならばアメリカは
日本と比べるとまだまともかもしれないと思う
(日本はパレスチナの人々の悲惨な状況を見聞きして、何故か行動まで起こす人は
 あまり見かけない)

アメリカはイスラエル出身者のロビー活動が功を奏して親イスラエル政策をとる
ドイツはホロコーストの歴史があるのでイスラエルに対してものを言えない立場だ
だが、この2つの国はそれでも「許されないことは許されない」
との態度を表明する人が少なくない
そして今回はそれがデモの形をとっているとしたら、、、

この報道を見たある人が「いちご白書」の映画を思い出したと口にした
「いちご白書」は映画そのものよりも松任谷由実のつくった歌
「いちご白書をもう一度」のほうが有名かもしれない

自分は学生時代この映画を見た
内容はさっぱり覚えていないが、見終わった後は怒りがふつふつと湧いてきた
のは覚えている
そしてもう一つ覚えているのは「サークルゲーム」という歌
「いちご白書をもう一度」のような切なさを覚えさせる歌ではない
松任谷由実は「いちご白書」を見て情緒的な「いちご白書をもう一度」をつくったのは
いかにも日本人的な感覚だなと思う

物事を感情的に捉えるということ
良い悪いは感情に支配されがちで、感情に訴える技術に優れているということ
どうやらそのような傾向がありがちということ

もしかしたら「いちご白書をもう一度」は今の時代に必要かもしれないと思う
それは歌ではなくて、本当に映画を見ようとの意味で
歌の世界で切なさを感じるためよりも
映画の訴える不条理な社会に対するプロテスト的な意味を感じるために

チャーチルの言葉にこんなのがあるらしい
「20歳の時にリベラルでないのなら情熱が足りない。
 40歳のときに保守主義者でないのなら、思慮が足りない」

そうかもしれない!と経験を踏まえてそう思う
願わくば今の若い人には「いちご白書をう一度」の歌に感傷的になる前に
情熱を持ってほしいと思う

例のごとく、まとまらない話

ところでサークルゲームはこんな曲
「いちご白書」 サークル・ゲーム (訳詞付き) Buffy Sainte-Marie - The Circle Game

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メイデイ

2024年05月01日 09時18分00秒 | ダイアリー

今日は令和が始まった日
そして様々な経験や感情を味わうことのできる機会を与えてくれた
母と父に感謝する日だ
この年令になると、それは嬉しい日ではなくて
最後までの秒読みになっているような気がしないでもない

現役から離れて社会生活の接点は少なくなっているので
この日が来ても別に大きな何かがあるわけでもない

ところが今の時代はおせっかいなものがある
朝、LINEを見るといつもとは違うところからメッセージがあった
「HAPPY BIRTHDAY」とある
ボタンを押すと音声がでてくるようになっている
寝ぼけ気味の頭には音声はちょいと鬱陶しいがボリュームを絞って聞いてみた

それからしばらくして、いつものルーティンワークを済ませていると
テレビ画面にまたもや「HAPPY BIRTHDAY」の文字が現れた
デジタル放送の双方向のサービスを使った占いを登録しているので
そこで気を利かして出てきたのだ

そういえば確か今月クレジットを使うとポイントもいつもより多くつく

人の生活はこうして主に経済を中心にいろんなサービスが生まれてきている
こうしたお祝いはどこか消費者としての存在としか見られていないようで
素直には喜べないような気がする

ところが嬉しかったお祝いもある
それは昨年のこと、近所の小学生が下校時に我が家の前を通り過ぎながら
「おじさん誕生日、おめでとう」と家に向かって大きな声で叫んでくれたことだ
その時自分はいなかったので知る由もなかったが
お隣さんが小学生の男の子がそう言ってたよと教えてくれたのだった
(その日は登校時の付き添いで「今日は自分の誕生日」と話したのだった)

たったこの一言でなんと心がウキウキしたことだろう
それを聞いてから寝るまでは心がずっと軽くいられた

生きていれば年に一度やってくるこの日
この年齢でこんなものか?
と成長も深化もない自身に呆れながらも
それも自分と受け入れるしかないのだろう



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