ディストピアはユートピアと反対の意味を持つ言葉
小説ではこの世界を描くものがあるが
まさか現実世界でこれを実感することがあるとは思わなかった
昨日スタートした東京都知事選
初日となればポスター掲示板に候補者の顔写真が並ぶのが普通だが
昨日は異様な見られた
なんと、同じ内容のポスターが一つの掲示板にいくつも貼られている
犬が写っているものもあれば、若い女の子の写真があったり、QRコードを
掲載したものもある(QRコードでは怪しいサイトに導かれるそうだ)
大半の人々は、立候補者は何らかの政治的な動機があって
供託金300万円を払って都知事選に挑戦していると思っている
ところが、今回の場合は全くそうではないと言える
NHKから日本を守る党からは19人立候補し
また関連する人物も数人立候補しているのだが、彼らが掲示できる場所の権利を
他人に売って、(党に寄付金という形で収めて)単なる屋外広告の一つとして利用する
という方法がとられているようだ
党に対する寄付金が、ある時期までに収められたものは幾らで何箇所
それより遅い場合で掲示場所を増やしたい場合は寄付金は増やす
このような方法がとられているのだそうだ
誰もがおかしいとか違和感を覚えるこの方法
どうやら法的に問題があるかと言えば、ないらしい
だが法的に問題がないからと言ってやって良いことといけないことがある
それは明文化されてはいないが、常識とか倫理観という自然法的な概念が
人にブレーキをかけると大半の人も社会も思っていたのを
法に書かれていないからといって開き直って無神経に行っているのだ
話は飛ぶが有名なアダム・スミスの「神の見えざる手」の概念は
何か特別な操作をしなくても需要と供給によってバランスがとれるというものだが
それには大きな前提がある
それはアダム・スミスが「国富論」の前に残した「道徳感情論」のタイトルにあるように
人々が道徳的であることが求められている
またシュンペーターの「資本主義、社会主義、民主主義」では現在日本人が享受している
この資本主義の世界は、ストレスが多いとされていて、それは商売上の競合他社が
何をしてくるかわからない不安から来ると説明されている
何をしてくるかわからない、、というのが法的な範囲内なのか
それとも法を超えた予想外のことなのか、、それとも経済合理性を超えたものかは不明で
世の中は実際に時々現れる秩序の破壊者によって大きく変わることはある
秩序の破壊者を突破する人、新しい世界を作るきっかけの人と評価するか
それともやはり単に破壊者に過ぎなかったのかは
時の経過待たないと結論はでないことが多いが、いずれにせよ自分の住む世の中は
人が緩やかに感じる倫理観とか常識が優先される社会であってほしいと思う
それを思うと、今の世界はもはやディストピアと言うしかないのが情けない
「Hくん、昨日ありがとうね、『ただいま!』って大きな声で言ってくれて」
「うん、おばさんが『おかえり』って言ってくれた」
最近、毎日のように続いている5年生のHくんの下校時の挨拶
これが最近は日常になりつつある
そしてこれはとても心が軽くなる
月木の朝のルーティン、子どもたちとの校門までのウォーキング時のおしゃべり
子どもたちは機嫌が良い日もあれば、元気のない日もある
「おじさん、はみ出さないで!」
道路の右端に引かれた白線内を一列に並んで歩くのだが
ちょっとはみ出したところ、4年生のAちゃんに言われてしまった
「ごめんごめん、怒られちゃった」
白線内に入って、Aちゃんに話しかける
「前にね、ねえねにも怒られちゃったことがあるんだよ
道に煙草の吸殻が落ちていて、ねえねが
『おじさん、帰るときまでにこれ片付けておいて』
と頼まれんだけど、忘れてしまっていたら
『おじさん、やってない!」って怒られちゃった」
それを聞いた、Aちゃんに笑顔が浮かぶ
しばらくして「やってないほうが悪い」の声
最近は仕切り屋さんになっているAちゃん
ようやく少し不機嫌気味が通常に戻る
話やすい子もいれば、そうでない子もいる
できる限り多くの子と話すようにしている
こうした会話はすぐに忘れられるものだが
子どもたちは案外覚えているかもしれない!と思うこともある
年度末には子どもたちの「あいさつ運動の皆さんへ」と書かれた感謝の作文集が
回覧で届くのだけれど、そこには、決まり切ったような感謝の言葉が多く
書かされている!と思えるものが多いが、近所の子たちの作文は
普段の会話がどこかにじみ出て他の作文とリアリティが全然違う
子どもたちは言語化出来ていないが、それでも何かを感じている
ということは間違いなく実感する
ということで、今朝のおしゃべりは怒られてしまった思い出を
妹さんに伝えたってこと
同居人にこの話をすると、笑っていた
それは幸せな時間
今日も書き残しておいたものの紹介
ひと頃、朝ナマにでていた西部邁さんはなんとなく好きだった
幅広い知識と洞察力、そして人間の情けないところを理解して
それらをベースに説く話は右左に関係なく聞くに値するものだった
西部さんの「幻想の保守」からの一部引用
保守主義は宗教に対する狂信と科学に対する盲信とをともに回避したうえで、いわば進歩の中庸化を図ろうとするものである。しかし、その中庸は決して単なる平準化・平均化なのではない。科学によって代表される合理性と宗教によって代表される非合理性のあいだに、つまり対立する価値のあいだに際どく平衡を与える知恵の集積、保守主義が保守しようとするのはそれである。保守主義は人間の完全可能性を信じない。それは人間が知的にも道徳的にも不完全であるという前提から出発する。
もう一人気になっている人が佐伯啓思さん
もう一人気になっていた人が佐伯啓思さん
この方も知識量が半端ではなくそれが人格につながっていて参考になることが多かった
その人の「近代の虚妄」から
「今日の大衆は、彼らが喫茶店からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じているのである」
「相互的な寛容」や「組織的な自制心」や「手続きへの信頼」が民主主義を支えるとしてもこれらの「暗黙の規範」そのものは、民主主義から生み出されるわけはないのだ。いや政治的でさえない。それはひとつの国の自生的な文化や歴史的経験、社会的な意識の中で形成されるほかない。「コモンセンス」つまり常識である。
西部さん、佐伯さん、丸山眞男さん
こうした人と比べると今の知識人の軽いことに不安を覚えるのは
文句が言いたい老人だからだろうか
「まひろ」と「ききょう」の性格を現すと思われるところを
本人の作品からの抽出してみると、、、
まずは清少納言の枕草子から
まさにありそうな話で、よく観察しているな、、の印象
続いて紫式部の「源氏物語」の乙女から 息子の夕霧を安易に位を与えなかった親心の部分
両方とも今でも充分通用しそうなエピソード
なかなか面白くて、書き残しておいた
このように書き残しておいたものの中で、忘れられないのがアイヒマン裁判の判決文
これはよく読むと考えさせられる
これらは知っておいて損はない、と思える
オリンピックでもなくワールドカップでもない
4年に一度行われるのは首長選挙
投票率が上がらない、、と嘆く人も少なくないが
投票率をあげるために教育機関で模擬投票を試みる
ところもあ有るようだ
この4年に一度の市長選挙のために我が市では
「市長立候補予定者による公開討論会条例」というものが制定された
各地でよく行われるJCによる「公開討論会」みたいなものを
制度上に有るものとして実施しようとするものだ
JCなどの行う公開討論会をよその地区のを見たことが有るが
お行儀が良くて、正直なところつまらなかった
トランプさんとバイデンさんみたいな罵り合いはみっともないが
良いことばかりを口にする抽象的な話はつまらないし
そもそもマニフェストなるものの実効性や予算措置のなど根拠などを
会場にいる人達が理解しうるものなのか、、大いに疑問に思えてしまう
4年に一度だけ、投票の直前にもったいぶって行われる公開討論会が
まことしやかに行われても個人的にはもあまり意味はないと思う
(やらないよりはやった方が良いが)
公開討論会を実施すること、それが条例化されているということは
市民の意識が高まっているとは言えないとずっと思っていた
肝心なのは市民自身がいろいろ知ること、考えることと思う
(それには正しい情報の確保が必要だが)
つまりはどうやって市民の間に主権者意識とかシティズンシップを醸成するか?
市民間でそれらの試みを不断に行って、その上での総仕上げとして
公開討論会が存在するのならわからないでもない
でもただ単に形だけ行っても、、、、
つまりは4年に一度だけでなく、常日頃に市政等に関心を持って
我がことのように何かを思うこと、そしてそれについて人と話すこと
それがまずは大事と思っていた
でも現実はこれはなかなか難しい
若い人には時間がないとか、そもそも面倒なことを考えずに済ませるために
代表制民主主義の形をとっているとか
だが歳を重ねて実感することは、そのような制度とか実態にあまりにもお任せしていると
自分たちはついには痛い目をするかもしれない、、という思いだ
痛い目が取り返しのつかないものだったり
次の世代の人々に負担をかけるものにならなければ良いのだが
何度でも繰り返すが、投票しないという選択は結果的には
支持母体の多い候補者に投票していることになると思う
それらを理解したうえで投票しないでいられるのだろうか?
いつもの、まとまらない話!
東京都知事選は混戦のようだが、アメリカ大統領選も先が見えない
ところで、東京都知事選立候補予定者はなぜあんなに多いのだろう
冷静な頭があれば無謀な行為と思われる人が少なくない
使命感に導かれて行動に出る人はいるかもしれないが
都民であっても全く知らない人がきっといるだろう
この少し調子に乗った行いは日本の今を表しているのかもしれない
目立ったもん勝ち 自己承認欲求の究極の姿
これらは政治とは何の関係もない欲求に支配されているように思えてしまう
彼らを面白がって応援する人がいくらかは存在するのだろうが
その無責任さを生み出している社会は少しばかり病んでいると思えて仕方ない
ところで「もしトラ」が実現するかもしれないとされるアメリカ大統領選
アメリカでは公開討論会が行われる予定になっている
真剣勝負で行われる自己アピールの場だが、前回はトランプさんバイデンさんの二人とも
相手の話している最中に野次を入れたり、反論をいれたりして収集がつかなくなった
そこで、今年は相手が話している間はマイクをオフにするようにするらしい
少なくとも相手の話くらいは聞くのが常識だと思うが、それすら出来ない大統領候補
というのがなんとも情けないが、現実的な方法としてはマイクオフは苦肉の策だろう
この公開討論会のニュースで興味を引いたのは実はマイクオフのことよりも
二人は「会場にメモなどの資料を持ち込んではいけない」とされたことだ
つまり自分の言葉と頭で、しっかりと話せ!
見聞きしている人はそれで能力・人格を判断するぞ!ということだ
最近の日本の記者会見は、予め質問事項を渡されて政治家はメモを読むだけとなっているから
この制限はなかなか面白い試みのように思える
そしてアメリカの公開討論会というのは人間性を垣間見せる仕組みになっている
と思えて、少なくとも日本の討論会の運営よりは進んでいると思える
相手の話している間に壇上の他の人が口を挟む(みっともないことだが)
その姿をわざわざ見せることで、その行為をした人を会場の人間が判断する
こうした試みをしたことがあった
それは数年前の我が市の市長立候補予定者3人による公開討論会のこと
そこでは一人あたりの話す時間は決められていた
眼の前にはタイムキーパーがいて、持ち時間が減っていくのが本人も他の人間もわかるようになっていた
この時、運営を任された総合司会者は、時間オーバーをした人に人物に
それを告げることは敢えてしなかった
それは、時間をオーバーした人の人間性(開き直っているか慌ててしまうか)とか
聞かされている人の行動(イライラしたり、時間が過ぎてるぞと言ってみたり)を
可視化するためにそうしたのだった
公の場ではみんな良いことばかりを言いたがる
だが、とっさの場面でフト出てしまう人間性
会場にいる人間がそれらを感じることができれば
誰に投票するかの判断材料になりそうとの思いでこのような試みをしたのだった
このシーンは少なくとも一回はあった
そしてそれは思わず出てしまう人間性を垣間見れる機会だった
だが、会場の人たちに運営側の意図とか仕掛けを想像してもらえたか?
という点では少し不安があったのも事実
昨日取り上げた「資本主義の宿命」の中には少し残念な事実が紹介されている
アメリカのビュー・リサーチ・センターによる世界47カ国の比較研究がそれで
「政府は困窮者を助けるべきか」の質問に対する答えで「はい」と回答した
割合が紹介されている
アメリカは70%、イギリス90%、中国91%、韓国87%
ところが日本は59%の人しか「はい」と答えていない
自己責任論の国と思われるアメリカでさえ70%なのに、日本はそれ以下で
「日本人は他人を助ける気がない」と結論付けられているようだ
そしてそれは実態社会でも、予算の配分等で見られるような気がする
話は飛ぶが、電車の中で財布を落としたら日本では財布が戻ってくることが多く
素晴らしい倫理観のある国と自画自賛する人が多いようだが
老人・妊婦・幼児が列車内に立っているのを見ても
寝た振りをしたり、スマホに夢中になって席を譲らない人が
財布が戻ってこない国よりは高いそうだ
一般的に優しい人々が多いとされる日本人
でも実態は少しづつ、そうではなくなっている!
とこれらの数字や例が示す
それは気持ちの余裕の無さから生まれるものかもしれない
これは倫理観の教育をすることでクリアされる問題とは思わない(自分は)
教えられてそう気づくよりは、自然に気づくようになって欲しいと思う
困っていたら国とか誰かが助ける
それが当たり前のように実現される社会には、どうしたらなるのだろう
ただ、それを可能にするには食べること、住むことなどが確保されていないと
気持ちに余裕は生まれないとも思う
社会の構造的なもの、最低限の暮らしプラスアルファの生き方が
できるようにすることが必要と思ってしまう
(それが政治の責任なのかもしれない)
少しお気楽な投稿が続いたので、久しぶりに真面目なものを
「光る君へ」のドラマの影響で「香子」とか「清少納言のたくらみ」を購入して
平安時代の価値観などに浸っているが、反動として現代の問題にも関心が行くようになって
「資本主義の宿命」(橘木俊詔著)をアマゾンで購入した
そして一気読みした
資本主義に関しては少し前に「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」
を手にした
この本が思いのほか興味深かってので、それで上記の本を手に入れたのだった
この本(宿命の方)の終盤に二つの考え方の否定がなされてる
一つは世界ではよく知られているが、何故か日本ではそう思われていない
トリクルダウンの効果のないこと
富むものが富めば(経営者たちが富めば)そのお金は下々まで落ちてくるという
一時期自民党の表立って唱えた考え方だ
これはピケティの「21世紀の資本」でも否定されているし
それ以外でも世界では当たり前のように否定されている
だが日本ではいつまでも説得力をもって語られるような気がする
これは早くメディアが現実のことを伝えるべきと思う
(それが現実的に機能しなかったのは人間性の闇の部分のせいか、
それとも法的な不備(下請法などの)のせいか、いずれにしても結果的には機能しなかった)
もう一つは、高収入の人々に累進課税をかけると、せっかく頑張って働いてきたが
税金でお金をたんまり持っていかれてしまうのでは、もうそれ以上働く気持ちが失せてしまい
それは経済にとっても良くないとする考え方
心情的にはそんな気がしないでもないこの理屈も、実態はそのようなことで勤労意欲は
失せることはないとデータが示しているという
考えてみれば大谷さんが税金をたくさん取られるからと言って野球に真面目に取り組まないとか
藤井聡太さんがたくさん税金を取られるからといって、自分の大事にしているものを
自ら離れていくなどとは考えられないことから想像できる
格差が存在しないほうが経済的だけでなく保安上も良いと思われる
どのように格差について対応していくかが国とか地域によって違ってくる
日本がお手本とする国アメリカは、自己責任の精神が根ざしていて
弱者に対して公的な補助は否定的な考え方が多いようだ
日本でも最近は自己責任論が巷で広がっている
不思議なのは、すぐにでも弱者に陥る可能性のある人々が(弱者予備軍が)
自分たちは勝ち組のような精神状態にいることだ
つまりは日本人はどの立場にいても自分たちを勝ち組とか自己責任論で乗り切れる
と思っている人が多いような気がする
大雑把に分けると、経済を仕切る人たちの要望を考えて社会を運営する考え方と
どうしても生まれてしまう経済弱者を中心に考えてより良い社会を作ろう
とするものに別れるようだ
現実的にはバランスの問題だが、ヨーロッパのドイツ、フランス、あたりは
自己責任論で終わらない半ば公的な力を重視する社会になっているようだ
さて日本はどちらがいいか?となるのだが、
問題は日本人はこの問題に対してしっかり考えていないことではないか
日本人はどんな時も対処法だけで済まそうとする
根本的な取り組み方は、どうしてもないがしろにされて
対処法が思想にまではならない
ということで、これらの本を読むたびに日本人の問題に取り組む姿勢が
どこか浅いものとか、最近の知識人といわれる人々の人間性のポテンシャルは
過去の丸山眞男とか福沢諭吉などと比べて
すごく小さなスケールになっていないだろうかと不安を覚えてしまう
(この本はもっと詳しく格差についての話が本筋となっているが
とりあえず自分が気になったのはこのこと)
例のごとく話が逸れてしまったが、そう思うきっかけになったということ
富士山が帽子のように見えるコンビニが絶好の写真スポットになって
地域の人の迷惑になって、ついにはそれが見えないように看板を自治体が建てた
人はそこまでして(迷惑をかけてまで)写真を撮りたいか、と思ったっりするが
思い出してみると人のことは言えないかもしれない
その場所に行った人は必ず撮影する写真
それを自分もしていた(ただし、迷惑はかけていないと思う)
ディズニーランドのお城のモデルとなったドイツのノイシュヴァンシュタイン城がそれだ
この写真撮影の場所(マリエン橋)の混雑状況はこんなだ
ご覧のようにすごく混んでいる
だが、それを承知の上で撮影する気持ちはわかる
そこからのノイシュファンシュタインの美しいこと
正直なところ、それを見るまでは少し馬鹿にしていた
通俗的な観光スポット、、まあ、せっかくだから見てみるかくらいの気持ちだった
それでも出かけたのはこの城を計画したのがヴァーグナーの魔力に囚われてしまったルードヴィッヒ2世で
城にはヴァーグナーの楽劇やオペラの場面を彷彿とする部屋があると聞いていたからだ
つまりはヴァーグナーへの興味から訪れたのだった
だが、橋から眺めた城は本当に綺麗だった
ルードヴィッヒ2世は夢のような城を建てたかった気持ちがわかる気がした
そしてこの美しさを求める感性は、きっと孤独ものにならざるを得ない気もした
そして実際のところ、彼はそのような人だった
この橋からの撮影は春・夏・秋・冬 いずれも味があって良いようで
許されるものならトライしてみたいと思う人がいても不思議ではないと思われる
ということで、今日も昔の出来事の振り返り
11年前の6月14日は、フュッセンのノイシュファンシュタインに行った
この日の出費は、ノイシュヴァンシュタイン見学バスツアー、
城内見学料、お土産、昼食、晩ごはんなど(ホテル代抜き)で75.4€だった
(出費記録をつけていた)
浪費家なのか、ケチなのか、、、どうなんだろう
今日で多分4日目くらい
また「おじさーん」と叫ぶ大きな声が聞こえた
車が泊まっていて自分が家にいることを確認して
3時から4時くらいのころ
5年生の彼は学校から帰ってきたよ!
と知らせるために今日も我が家の庭に入って大きな声で叫ぶ
「はーい」とその声に応える
昨日は2階にいたので窓を開けて「おかえり!」
と声を掛ける
彼は驚いて「2階か!」と顔を見上げる
今日は1階にいたので窓を開けてすぐに
「おかえり!」と応えると
「ただいま!」と彼は応える
こうした時間はとても心がどこかホッとする
彼は無邪気にこちらを信用しているようだ
彼には月木の朝は
「靴はちゃんと履いて!(いつも踵の部分を踏んでいるので)」とか
「忘れ物はない?」が定番の言葉
ちゃんと聞いているのかわからないが
それでもこのような行動をしているから何か感じているようだ
男の子はおぼっこいな!と思う
彼は年下の女の子にいつも叱られている
こうした小さな出来事が幸せを感じる瞬間
彼らが泣くようなことがあっては(社会であっては)いけない、、
と心から思う