パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

11年前の今日は、、、

2024年06月12日 09時56分55秒 | 旅・旅行

11年前の今日、6月11日10時頃 ドイツのハイデルベルク駅を降りた
目的は2回目のフルトヴェングラーのお墓参り
ハイデルベルク駅のインフォメーションでお墓に行く道を聞いたが
そこにいた若いドイツ人はフルトヴェングラーが何者かは知らなかった

とりあえずシュタットプラン(地図)を手にして市電に少し乗って
すぐに降りて広い墓地についた
39年前は彼のお墓を探すのはたいへんだった
モタモタして人に聞いてやっと着いた

2回目は墓地の地図を見て苦労しなくて行けたが
途中、一度そこにいた年のいった女性に聞いた
彼女はフルトヴェングラーを知っていた
そして偉大な指揮者でカラヤンよりは良い!と言っていた


彼のお墓には花に飾られていたし、奥さんの墓石もあった
忘れられていることはないが、どこか寂しい感じ
そこで何もしないで20分ほど、鳥の声とか風の音を聞いてボーっとしていた
メシアンによれば地球上で一番の音楽家という鳥の声を聞いていられる
この場所はフルトヴェングラーが眠っているところに最適だと思えた

この街に来た目的を果たした後、ブラブラとハイデルベルク城の方面に歩いた

町のあちこちで「Spargel」の文字が多く見られた
調べてみるとアスパラのことで、シーズン真っ最中のようだ

人並みにハイデルベルク城にケーブルカーで行ってみた


昔、来た時は日本人観光客がが壁に落書きをしたとの報道があり
ちょいと肩身が狭かった記憶がある



城からのネッカー川と街の景色
写真中央左の大きな建物は教会
確かオルガンコンサートが近々ある!と
入り口付近に飾られたポスターにあった

旅は行ける時に行っておかないと行けなくなってしまう
理由あって今は音無しの構えの生活が続いている
でも、記憶の中のその世界は時間経過が美化して
自分だけの宝物になっている

デジタル写真はデータに撮影日が記録されているので
何の気なしに写真を見つけて、思い出した今日のこと

米11日は今日ではなくて昨日だった ボケたかな

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公共心それとも美意識

2024年06月11日 09時20分10秒 | 徒然なるままに

靴はちゃんと揃えて!
薬はラベルが見えるようにして置くように!
ハンガーに掛ける時はきちんと、、
いつも叱られながら聞くことになるのだが
だらしないことに、なかなか修正できていない

あれ見に行って!
月木の可燃ごみの収集に来た後のネットの様子をチェックするように言われる
カラスがゴミをぶちまけないようにネットでカバーするようになっているが
収集が終わると、ネットはだらしなく広がったままだ

それを我慢できない同居人は、自分で直しに行ったり
このように命令したりしてきれいに畳まれている状態にする

同居人は他の家と道路の境にたくましく咲いている雑草が気になって仕方ない
気にならないのかしら、、、と何回かつぶやいて、そのうちにとうとう草刈りに出かける
道沿いなので交通事故に遭わないか心配だが、暇を見つけてコツコツと行う

〇〇さんの家の雑草もきれいになっていた
と知り合いの家のことを話しかけて来る
〇〇さんも見苦しい雑草状態を我慢できない人だから本当によく働く
そして自分の守備範囲以外も、、、

我慢できなくなってよその場所も手をいれるのはご苦労さんと思うし
それが自然にできる人たちはエライな、、と思う
だがこれは公共心というより、彼女らの美意識のなせる技のように思える

大上段に構えた公共心より、周りに見えるものはスッキリしている方が良い
ただそれだけのような気がする

世の中には同居人と同じようなことをする人が多くいる
結果的に公共的な行為になっているが、その人達もだらしない環境は
我慢出来ないのだろう、、と想像してしまう

ということで、きれいに感じるという感覚は公共的な行為に繋がりそう
と思うこの頃

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母の涙

2024年06月10日 11時42分26秒 | ダイアリー

月木のルーティン、近所の子どもたちとの小学校の校門までのウォーキングは
呼び鈴を押したがいつもと比べて二人欠けたものになった

「昨日誕生日だったんだよ」と一年生のIちゃん
「ええと、7歳か」
口にしながら、そんなに小さいのかと改めて驚く

今朝は大した会話がなくそのまま時が過ぎる
登校する子どもたちを校長先生とボランティアの人達と
校門で挨拶しながら出迎える

みんなが登校したと思われる時刻に、男の子がお母さんと歩いてくる
男の子は泣きべそをかいている
さあ、行きなさい、、と背中を押すが、男の子はどこか不安そう

「今年4年生のAちゃんも一年の頃、GW明けに泣いて行きたがらなかったんですよ」
校長先生にそう伝える
あの時、Aちゃんはお母さんが「おじさんに手を繋いでもらって行きなさい」
と言われて、その後長いこと手を繋いで歩いたのだった

でも今は、、、「おじさんと一年のIちゃんは似てる」と不思議なことを言う
何かと聞けば「おじさんもIちゃんも同じことを何回も繰り返す」
あらら、、そう言えば「それ前に聞いた!」と指摘されることが多くなっている

不安そうな男の子を見て自分の昔のことを思い出した(何故か鮮明に覚えている)
自分も小学校に行きたがらなかったことがあった
皆と一緒になって登校する時、自分は裏の畑の方に逃げて学校には向かわなかった
畑に母が追いかけてきた
強情な性格はその頃からで、いい出したら聞かない感じの子どもだった(らしい)

畑まで追いかけてきた母
その顔を何故か覚えている
驚いたことに母は涙を流していた
その涙を見た時、自分は悪いことをしたのだ、、、と思った
もうそれはしてはいけないこと、、深く刻まれた

怒られるより、涙を流されたほうがきつかった
悪いことをした、、その感覚はいまでも覚えている

覚えていること、忘れてしまうこと
Aちゃんはもうちょっと前まで、手を繋いで学校まで歩いたことなど
忘れているだろう
でも、それが成長というもの、、
彼女は今は一年生を見守る仕切りやさんになっている




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「ラム」と「ホワイト・アルバム」「アビー・ロード」

2024年06月09日 09時34分45秒 | ポール・マッカートニー

やっぱり良いなあ、、
発売当時は酷評が多かったポール・マッカートニーのアルバム「ラム」
自分は絶対良い!と少数派の一人だった
今では、評価は変わって良いアルバムとなっているが、久しぶりに聴いてみた

良いアルバムは曲順そのままカバーする人たちがいる
有名なキャロル・キングの「タペストリー」も数人のミュージシャンが
オリジナル・アルバムそのままに演奏している


この「ラム」もデンマークのミュージシャンがまるっきりカバーしている
そしてそれがとても楽しい


曲は以下の通り

Side 1
トゥ・メニー・ピープル - "Too Many People" (Paul McCartney)
3本足 - " 3 Legs" (Paul McCartney)
ラム・オン - "Ram on" (Paul McCartney)
ディア・ボーイ - "Dear Boy" (Paul & Linda McCartney)
アンクル・アルバート〜ハルセイ提督 - "Uncle Albert/Admiral Halsey" (Paul & Linda McCartney)
スマイル・アウェイ - "Smile Away" (Paul McCartney)
Side 2
故郷のこころ - "Heart of the Country" (Paul & Linda McCartney)
モンクベリー・ムーン・デライト - "Monkberry Moon Delight" (Paul & Linda McCartney)
出ておいでよ、お嬢さん - "Eat at Home" (Paul & Linda McCartney)
ロング・ヘアード・レディ - "Long Haired Lady" (Paul & Linda McCartney)
ラム・オン - "Ram on" (Paul McCartney)
バック・シート - "The Back Seat of My Car" (Paul McCartney)

久しぶりに聴くと、ホワイト・アルバムみたいだな!と頭に浮かんだ
同じようにいろんなアイデアの曲が入り混じっている
アルバムとしてのまとまりが有る無しよりも、びっくり箱のようにいろいろある
そしてほとんどポール・マッカートニー一人でこなしているのに驚く

また、「アビーロード」に似ているかもしれない
(アビーロードのキャリー・ザット・ウェイトとハルセイ提督の
ハンズ アクロス ザ ウォーターと大声で歌うところが似ている気がする)
いや「サージェント・ペパーズ」に似ているかもしれない
(ラム オンの繰り返しが登場するところとか)

つまりはビートルズの影響がモロにあると感じると同時に
ビートルズのアルバムはポールの影響下で作られたに違いない、、と思うほどだ

ところで完全カバーのデンマークのミュージシャンの演奏でちょいと不満なのが
B面に2曲目のモンクベリー・ムーン・デライト
この曲はヘイ・ジュードみたいに曲の後半は長い繰り返しがあって
声によるアドリブが活躍する
その声のアドリブはオリジナルのポール・マッカートニーのはとても凄いが
カバーの方は、、ちょいとつまらない

それにしても、このアルバムは本当に凄いな、、と再確認した

 

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野次

2024年06月08日 09時34分13秒 | あれこれ考えること

ネタはどちらにしようかと迷ったが、あまり面白くないけど真面目な方を

野次は一般的に良いものではない(とされる)が
自分は野次ったことが二回ある(覚えているのは)
今は少しばかり分別臭くなってじっと聞いていられるが
10年ほど前の血気盛んだった頃の話だ

新城市は新庁舎建設計画について住民投票が行わることになった
すんなりそれが可能になったのではなく、みっともないほどの経過を経て
行われることになったのだが、住民投票を前にして「市民まちづくり集会」
が催されることになった
そこで住民投票の選択肢の良し悪しの判断材料となる討論が展開されるはずだった
(少なくとも住民は選挙における公開討論会のようなイメージをもっていたはず)

新城文化会館に集まった市民を前に、壇上に立ったのは従来の計画を進めたい行政と
その方針に反対で住民投票を求める運動をした人だった
ところが、一般人が思うような公平に討論が行われたかと言えば全くそうではなかった
まずは単純に説明時間が大きく違った
行政の説明時間はしっかり時間が確保されていた
だが行政案に反対し住民投票を求めて運動した人の説明時間は数分と限定されて
とても短かった(この人たちの案が住民投票の選択肢の一つだった)
それでも、とりあえず両論を比較するようそれぞれの立場から一人づつ代表者が
自分たちの考え方のほうが良いと訴えた
その中で事件がおきた
現行案に反対する立場の人間が、自分たちの考えには欠点があると会場で口にしたのだ

具体的には大きな予算を必要とする案よりは、既存の施設を使って身の丈にあったものに
したほうが良いというのが行政に対する案だったのだが、その立場を説明する人が
「使い続けたほうが良いとする東庁舎は雨漏りがする」と言い出したのだった

その人物は元市議で、新城市で進めている地域自治区制度の事務所長の一人だった
そもそもこの集会が全く公平に進められているか、発言時間の差から違和感を
持っていたのだが、これには瞬間湯沸かし器のように一瞬で熱くなった

「それをあんたの立場で言うのはおかしいだろう」
多分そんなことを声を出した気がする
それをきっかけに会場では怒号が広がり集会は少し荒れてしまった

ところで東庁舎の雨漏りについては、後日確かめたところ
雨漏りの事実はあったが、それは施設の不備というよりは雨樋に枯れ葉が溜まって
雨がオーバーフローしたために起き、枯れ葉の除去をしたら解決して
そのためのお金は必要としなかったとの説明を受けた
つまりは雨漏りは単に管理が悪かっただけのことだ

このまちづくり集会は、個人的には本当に怒りを覚える集会で
誰もが公平に両論の優劣を判断するためのものになっていなかった
これを運営したメンバーは、そもそもまちづくり集会は
それを運営委託したところの指示なり方針、考え方によって運営されるものであって
必ずしも両論の良し悪しの参考にするような集会ではないと口にした

一般的には無条件に両論を公平に扱っていると思われるものが
専門家しかわかり得ないような言葉の解釈による理屈で
偏っていても正当に運営されているとする
これっていったい何だろう?

行政主導のまちづくり集会で、その運営は実行委員会に任され
  大事なのはその方針に従って行われることであって、公平さが重要ではない
だから公平に行われていると思った市民がそれを聞いて間違った判断をしても
間違った方が悪いとでも言うのだろうか

昔のことをここで取り上げたのは、こうしたことが今でも少なからず起きていそう
と思われるからだ
物事は、「ああ言えば、こう言う」ということがいたるところで起きている
そしてそれは実態よりも書かれた文章とかその解釈に重心が置かれている

庶民は何よりも実態・現実を基本に何か行われるべきと思っていても
法に詳しい人々は何やら難しい理屈とか文章の解釈で庶民を煙に巻いてしまう
これはマックス・ウェーバーが「法と支配」の考察の中での
専門職の知識・文章による支配(?)みたいなことと似てる気がする

ということで、久しぶりに思い出したらまた怒りを覚えてきた
野次のもう一つは、これは長くなったのでカットする







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キャッシュレス決済

2024年06月07日 09時09分59秒 | ダイアリー

PayPayとかトイカなどのキャッシュレス決済
使ってみると便利で、PayPayはポイントが付くので
面白がって使っている

昨日、岡崎へ車で行った
いつも利用する駐車場は交通系のカードでキャッシュレス決済ができた
仲間が使うそれも見て、自分も交通系のカードを使うことにしていた

ところが、昨日はちょっとした変化があった
一つは価格、いつもなら400円で済むところが600円になっていた
駐車場も値上げか!
と諦めながらトイカをかざす場所を探すと、あれっ、見つからない
モタモタしていると、時間がかかりすぎているので機械は支払画面の
最初にもどりますの文字
最初に戻ると、交通系のカードは使えませんの表示が目に入った

そう言えば、機械が前と何となく違う
カードは使えるが、クレジットカードを使う気まではないので
現金支払いにした

地元の商店もキャッシュレス決済が増えている
同居人と頻繁に行くAコープも半分セルフレジになって
機械に向かって支払いをすることになっている
年寄りが多い地区なのでモタモタすることが多いが
キャッシュレス決済も慣れてきた人も増えたようだ

このAコープはクレジットカードはもちろんPayPayも交通系カード使える
残金に余裕のある方を使うようにしている

地元に進出しているピアゴはずいぶん前からセルフレジになっている
現金払いだったが途中から交通系カードを使うようになった
それが一時期、レジのシステムを変えたせいで(?)交通系は使えなくなった
また現金支払いに戻って、面相臭いな、、と思っているとまた機械が変わった
交通系が使えるようになった
でもPayPayは使えない

田舎でもドラッグストアの競争が激しい
独自のポイント制度をしているところはキャッシュレス決済に
交通系もPayPayも使える

いろんな都合があるだろうが、キャッシュレス決済でPayPayが使えたり
使えなかったり、、なんだか面倒
利用者の便利を優先するより、結局のところ自社の都合で
そうなっているのではないか、、と勝手に想像した

どうもいろんなところで自社独自のカードを作らせようとしている
いわゆる囲い込み戦術というやつだが、そんなにカードばっかり増えても
利用者は困る

ということで、世の中は値上げもキャッシュレス決済も変化しているが
なんか利用者のことよりも自社の都合で進められていくことが多いような気がする

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今朝の会話

2024年06月06日 08時48分49秒 | 子どもたちのこと

「〇〇くん、落とし物!」
少し前を歩くブラジルにルーツを持つ男の子に向かって
一年生の女の子が声を掛ける
手にはハンカチのようのものを持っている
男の子は当たり前のように黙って受け取る

「ありがとうは?」
試しに聞いてみる
「ありがとう」
と素直に応える
「エライ、エライ」と褒める

今度は拾ってくれた女の子に聞いてみた
「ありがとうって言われたら?」
「どういたしまして」

一年生でもこのくらいのことは常識となっているのか
「エライ、エライ」
女の子も褒めてみる
すると、この話を聞いていた4年生の女の子が
「そんなの当たり前じゃん」

「でもね、ありがとうって言える子も、どういたしましてと言える子も
 おじさんはエライと思うな」

月曜日と木曜日の朝のルーティン
小学校までの近所の子どもたちとのウォーキング
今日の会話はこんなのだった

子どもたちはそうした方が良いと思われることをまだ素直に実践している
その姿を見るとホッとする
そして心が洗われる

でも、今の世の中はどうだろうか、、
子どもたちは思春期を迎えても、大人になっても
ずっとこうした会話ができると良いなと思う

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ご近所さん

2024年06月05日 08時59分22秒 | 徒然なるままに

田舎はご近所付き合いがたいへん!のイメージがある
地域の役の割当、神社のお掃除、お祭り、子ども会
その他、地元の人なら恒例になっているいろんなものがあるが
新しく引っ越して来た人は慣れるまで時間がかかるかもしれない

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉がある
我が家では幸い遠くにいる親戚も冷たいってことはなく
いろいろ気を使って連絡なり贈り物をしてくれている

ただ毎日の生活の中では、ご近所さんはとてもありがたい
タラの芽の天ぷらを揚げたので!
と季節になればおすそ分けをもってきてくれたり
たくさんもらい過ぎたので!と余ったお菓子をもってきてくれたり
月に一度以上何かを頂いていいる

こちらももらい過ぎが気になって仕方ないが、あげるものがない
だから「切らしてしまったので、ちょっと醤油をかして!」とか
「プランターに植わっているネギをもらって良い?」
とお隣さんから聞かれると、何かお返しができるきっかけと思えてホッとする

田舎の人はかたい!
これは、受けた恩は必ず返すという意味で、本当によく実感する
高齢になったので免許返納した人のアッシー君になって
彼が行きたい場所に同行したりすると、その日のうちにとか数日後には
ガソリン代以上の何かをいただく

別の人も自分と一緒に所要で岡崎まで車で行ったりすると
ガソリン代、駐車場代、高速代などの負担分として
必ずと言っていいほどそれ以上のものをもってきてくれる
先日は「友だちが鯛を釣ったのをもらったので 
店でさばいて、喜んでもらえると思ってもってきました」
と優勝した大の里が手にした鯛と同じくらいの大きなものを持ってきてくれた

その他にも、誰か彼かが季節の旬のものを持ってきてくれる
何か魂胆があってこうするのではなく、ごく自然にこうしたことが繰り返される

ちょっとばかり不便で退屈することはあるかもしれないが
田舎は人間らしい感情生活ができる場所だと実感するこの頃

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批判について

2024年06月04日 09時37分06秒 | あれこれ考えること

「批判」という言葉が最近目に入る
7月の東京都知事選に蓮舫氏が出馬を決め、記者会見等で「小池都政をリセット」
などというメディアが喜びそうな批判的な言葉を使ったものだから
一部の人からは「批判ばかりしている」との苦情が出始めているからだ

批判ばかりでなく政策論争をしてほしい
という意見は、有識者なり意識高い系の人が口にする

だが、彼らの言うように政策論争とかマニフェストで戦ったとしても
果たして庶民にその良し悪しが判断できるのだろうか?との疑問が残る
そもそも小池さんが訴えた前回のマニフェストの達成率はどのくらいだったのか
それ以前に、そのマニフェストを庶民は覚えているのか

このように有識者とか意識高い系の人たちの意見を、そのまま信じられないのは
そうした場面をかつて目にしたことがあるからだ

数年前、我が市で市長選があった
立候補者は3人、その3人が集まって3箇所の会場で公開討論会を行った
ある会場で見聞きしていた有識者の一人はたまたま自分のすぐ後ろの席にいた
市長と仲の良い彼はこうつぶやいた
「(現職市長の)批判ばかりしている」

これは何故だか今も覚えている
そして何か違う、、とその時から思っていた
(そもそも批判があるからこそ立候補したのに)

選挙を前にしてはいろんな視点から行動と言動がなされる
漠然とした存在である大衆に効果的にメッセージを送る方法は何か?
こう考えた時に方法論として、あえて過激な言葉を選んで対立軸をはっきりさせる
というのはありそうだ
ちょいと品がないといえばその通りだが、抽象的な言葉に想像力を働かす必要のある
マニフェスト絡みよりもずっとわかりやすい
つまりは大衆に訴える方法論としてはこの方法はありうると考えられる

問題は、その戦いのほうが良いとされるマニフェストの方ではないか
こうしたいという単純な希望とかスローガンなら良いが
マニフェストなどという言葉を使うと実現可能性も必然的に問われる
そしてそれはお金の使い方に繋がるが、お金の使い方の良し悪しは
庶民には判断する材料が少なすぎて簡単ではない
そして、そもそも庶民はそんなことをチェックするのは面倒だと感じているのではないか

テレビ新聞は有識者という人々が「あるべき」選挙の方法を語る
だが彼らの意見は専門家の意見であっても一般化するのは実は難しいのではないか

人はほとんど誰もが自分の意見を一般化したがる
そして自分の思いは自分の周りの人に左右される
これは有識者でも学者でも同じだ
有識者の周りには「類は友を呼ぶ」のことわざ通り同じような発想をする人が
集まりやすいし、おそらく経済的な環境も似たようなものだろう

つまりは専門家の周辺の雰囲気とか思考傾向は
必ずしも社会全体の空気を反映していないということだ
だが問題はここからで、「専門家がこう言った」という報道は
うぶな庶民の思考傾向に影響を与える
「偉い人が、事情をよく知っている人がこう言った」
それだけで、鵜呑みにしてしまう人は少なくないと思われる
ましてそれがそれなりの穏便な意見の場合は特に、、、

最近は報道の姿勢とか内容に違和感を覚える番組も少なくない
そこでインフルエンサー的な役割を担う人に
一見まともそうな意見を発言してもらう(彼・彼女は本当に自分の意見のなのか?)

それは偏った見方かもしれないが、現在の世の中はこうしたプロパガンダ合戦の中に
いるかもしれない、と思っていたほうが良いと思う

ということで、東京都からはずっと離れた田舎の(偏屈な?)おっさんが思うこと

とにかく、これ等はプロパガンダの一つではないか?
と疑うことは大事だと思う

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運の悪い人が気になってしょうがない

2024年06月03日 16時31分29秒 | 

以前、枕草子をかじった時は、お坊さんはハンサムのほうが良いと
書かれた部分が印象に残って、今も昔もそんなもんだな、、と思ったものだが
今回「枕草子のたくらみ」山本淳子著を読んで、枕草子に対するイメージは
すっかり変わってしまった

枕草子は「光る君へ」では、ただただ定子のために書きはじめたと
されていたが、この本でもまさにその通りだった

清少納言は枕草子には既に起きていた兄による不幸な事件のことや
それ後の定子の悲惨なことは書かれておらず
幸せだった頃の雅な文化的な話題を呑気に書いているように思える
だがそれは意図的にしたことで、推しの定子のためを思ったり
忘れ去られないようにするためのものだった

この本を読んで一番心に残ったのは実は清少納言の定子に対する思い
ではなくて定子という人物そのものだった
彼女はとてもセンスが良く機知に富んで漢詩や和歌の素養もある
そして清少納言を育て上げたディレクターのような人物だった

自分はどうも彼女のようなちょっと運の悪い人につい惹かれてしまう
大津皇子、村山たか、土方歳三、
歴史に燦然と輝く人物ではなくて、どこか運命に振り回されるような人物
だからこそ清少納言が一次資料としてこの書物を残そうとしたのはわかる気がする

彼女の人物像をダイレクトに感じるには、定子の残した歌を味わうのがいい
定子は三人目の子どもを懐妊し、それが原因で産後亡くなってしまったが
生む前から自らの死は感じていて、辞世の句を3つ残している

この本にあったので、現代文と一緒に書き残しておいたのが以下
現代語訳は著者の山本淳子氏)

●夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

 一番中、あなたは私に愛を誓ってくださいました
その言葉をお忘れでないなら、私の亡くなった後、あなたは私を恋しがってくださるでしょう
そして、悲しみのあまり、血の涙を流すでしょう
その色が見とうございます

●知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな

この世と別れ、知る人もいない死の世界へ。
心細いけれど、急いでもう旅立たなくてはなりません

●煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ

私の身は煙となって空に上ることも、そこで雲になることもありません
でも、どうぞ草の葉に降りた露を、私と思って見て下さい

 

この感情の深さ
きっと素晴らしい人だったんだろうな
清少納言の気持ちもわかる気がする


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