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【京都幕間旅情】吉田神社節分大祭,追儺の宮廷祭事再現は洛中の節分神事に在って別格の規模

2024-02-07 20:00:25 | 写真
■節分と云えば吉田神社
 歴史を辿れば今の形になったのは割と最近なのだけれども期限を辿ればそれはもう古い歴史を持つというのが節分だ。

 節分といえば、吉田神社である。異論は認めない。表に出ろ戦争だ、と思う方はまあ待って。吉田神社追儺という都年中行事画に記されているものがありまして、節分で豆まきをしたい切実な事情を持つ者たちが千年以上前に拓いた社が、吉田神社なのです。

 建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比売神、四柱を奉じる社殿の節分は洛中の節分神事に在って別格の規模を誇り、福引抽選会では特賞に自動車の新車が当たるという。駐車場でぶつけられるのではなく景品として自動車がもらえるというからすごい。

 左京区吉田神楽岡町、わかりやすく言うと京都大学の隣、ここには貞観元年こと西暦859年、公卿藤原山蔭が氏神を祀るために春日大社より四座の神々を勧請し創建した神社があり、その神社こそが今の吉田神社となっています。もちろん氏神の神社ではある。

 延喜式神名帳として当時の洛中の神社を列挙した一覧にも記載されていないあたりが、氏神の社殿であった証左でもあるのですが、時を経るとともに京都における藤原氏全体の氏神として崇敬を集めてゆくこととなります、当時滅びゆきつつあった藤原氏の。

 藤原氏といえは平城京からの名門一族ではあった、けれども、平安朝の頃に在って藤原道長が絶頂期を迎えるまでは衰亡を迎えていました、こういうのも奈良時代、聖武天皇の時代に博多に上陸した天然痘により、人口の三割が死亡した災厄と無関係ではない。

 聖武天皇の治世下に藤原氏は官職を独占しつつありましたが、天然痘の九州上陸に際して初動対応に当たったものの多くも藤原氏であり、多くが死に絶え、藤原四兄弟という高位高官たちも全員死亡、結果政敵の橘氏が台頭することとなりました。

 橘諸兄の台頭背景は藤原氏の衰退という甘いものではなく、藤原氏から高官の人材が全員死亡したために補欠的に補職された経緯があり、人口も比率でいえば太平洋戦争よりも遥かに深刻な激減を迎え、墾田永年私財法など景気刺激策を強行することになる。

 墾田永年私財法はのちに寺社や貴族の無理な荘園開発を引き起こす原因となり、日本は800年にもわたる騒擾の時代を迎えます。こうした中、藤原氏は平安遷都とともに京都を新しい拠点とするうえで、もう二度と、と病魔の災厄を恐れるようになります。

 追儺、というように節分といえばやはりその始まりは魑魅魍魎を祓う神事であり、考えれば藤原氏の平城京における衰亡は直接の原因が天然痘、すると祓いたくもなるでしょうという気概はやはりわかるものです。今年も吉田神社の節分は盛大に行われた。

 卜部氏、藤原神社ではなくて吉田神社であるのは、氏神信仰から大衆信仰に変革を経たゆえ。その際に卜部氏が神職を引き受けるようになった鎌倉時代に氏神から町衆の社殿となった故で、お祭りに来ている人が全員藤原というわけではないのだ。

 正暦2年こと西暦991年には十九社奉幣に列せられることとなり、朝廷祭事の一端を担う事となります。この十九社は二十二社となり、その際に下八社の一社へ列せられることとなる。明治時代の官幣中社、現在は神社本庁の別表神社といういちづけ。

 卜部神社ではないのは、卜部氏がのちに吉田家となったためです。江戸時代の寛永年間には吉田氏は諸社禰宜神主法度を幕府より任され、日本全国の神社へ神道裁許状の発布を所管することとなり大きな影響力を持つようなる。京都大学受験の際にみな詣でる。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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