■雪残る節分の日に
節分会の日に思い切って散策してみてよかったのは久々の活気を感じた為なのです。
清荒神、護浄院はこう呼ばれている通りなのですが、荒神といいますとNHKのドラマが名前だけ妙なものを作ってしまいました、しかし、三宝荒神という名でも知られます通り仏教の神様です。ヒンドゥー教と仏教の関係ある、他方でその姿は日本的でもあるという。
ヒンドゥー教でいう仏教に帰依したことから来ます荒神という信仰は、要諦であるのは仏教は発祥の地にはあまり信仰を広めることはなく、ただ、一例として鞍馬山のクラマーがヴィクラマディーチャのクラマーと重なるように信仰と神々は日本とインドを結んでいた。
かまどの神様となりました清荒神ですが、困ったことが一つ、この護浄院は宝亀3年こと西暦772年に光仁天皇の皇子である開成皇子が御所に祀った、ということです。当時の御所といえば長岡京ですので、現在位置からは阪急特急でも烏丸と桂とその向こうという。
開成皇子、祀るのはいいのですが皇子が祀るような神様なのか、ということになりました。そして平安遷都の際にも御所に堂宇が遷座したのかは、残念ながら調べるには手元の資料が少なすぎるのですが、明徳年間に御所の外に堂宇が遷座されている、御所から出された。
明徳元年、西暦ですと1390年の話ですが、後小松天皇の命により高辻堀川、つまり今の阪急大宮駅から南のほうへ行った場所、西本願寺から五条通を渡ったあたりともいえるのですが、そのあたりに遷座されているのですね。その際に天皇から堂宇は名前を賜ります。
常施無畏寺、という名前が後小松天皇から賜っています。この頃の規模は今よりももう少し広かったように古地図にはあるのですが、豊臣秀吉の京都大改造により寺町通が整備されます、寺町通というのは御所奉護のために寺社仏閣を御所の周りに集めたという政策で。
後陽成天皇の時代、豊臣秀吉の京都大改造がひと段落下慶長5年こと1600年に、今の位置へ常施無畏寺は遷されています。御所を穢れから守ってほしいという意味合いもあるのでしょう、元禄7年こと西暦1694年、東山天皇により今の護浄院という名を賜りました。
天明の大火により一時は焼失するのですが、幕末にありました蛤御門の変では御所の反対側であり長州藩邸からも距離がありましたことで焼失を免れ、そして明治維新とともに大きな役割を担います、その背景は紛れもない、皇室による寺院であったことがおおきい。
廃仏毀釈、おそらく近現代史における最大規模の文化破壊であったと考えるのですが、東京遷都とともに御所にありました貴族邸宅は悉く取り払われます、その際に貴族邸宅にありました持仏像などを引き受けたのがここ護浄院であったのですね。何か運命的とおもう。
常施無畏寺ではなく護浄院、廃仏毀釈の時代にあってもここは寺院ですが寺ではないのですよ、ご本尊も荒神さまです、という部分が、廃仏毀釈は新政府への巨大な忖度の暴走によるもの、あまり仏教に関心ない方にはこの説明で納得するところがあったのでしょうか。
三宝荒神というご本尊は、もともと仏僧を穢れから守る、そして転じて伽藍も守ることとなり、その先に穢れを祓う連想からかまどの神様となったのですが、原点回帰で持仏像を守ることになったという、実に堂宇が開かれてのち1100年というときを経て原点回帰です。
京都にはこういう不思議な歴史の話が多い、仏教とかお釈迦様の、説話的なといいますかひとの信仰心上によっては恩着せがましさという話題もありますが、それよりも偶然と縁というものが重なった事柄も多いのですが、そうした話のほうが実に人間的に見えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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節分会の日に思い切って散策してみてよかったのは久々の活気を感じた為なのです。
清荒神、護浄院はこう呼ばれている通りなのですが、荒神といいますとNHKのドラマが名前だけ妙なものを作ってしまいました、しかし、三宝荒神という名でも知られます通り仏教の神様です。ヒンドゥー教と仏教の関係ある、他方でその姿は日本的でもあるという。
ヒンドゥー教でいう仏教に帰依したことから来ます荒神という信仰は、要諦であるのは仏教は発祥の地にはあまり信仰を広めることはなく、ただ、一例として鞍馬山のクラマーがヴィクラマディーチャのクラマーと重なるように信仰と神々は日本とインドを結んでいた。
かまどの神様となりました清荒神ですが、困ったことが一つ、この護浄院は宝亀3年こと西暦772年に光仁天皇の皇子である開成皇子が御所に祀った、ということです。当時の御所といえば長岡京ですので、現在位置からは阪急特急でも烏丸と桂とその向こうという。
開成皇子、祀るのはいいのですが皇子が祀るような神様なのか、ということになりました。そして平安遷都の際にも御所に堂宇が遷座したのかは、残念ながら調べるには手元の資料が少なすぎるのですが、明徳年間に御所の外に堂宇が遷座されている、御所から出された。
明徳元年、西暦ですと1390年の話ですが、後小松天皇の命により高辻堀川、つまり今の阪急大宮駅から南のほうへ行った場所、西本願寺から五条通を渡ったあたりともいえるのですが、そのあたりに遷座されているのですね。その際に天皇から堂宇は名前を賜ります。
常施無畏寺、という名前が後小松天皇から賜っています。この頃の規模は今よりももう少し広かったように古地図にはあるのですが、豊臣秀吉の京都大改造により寺町通が整備されます、寺町通というのは御所奉護のために寺社仏閣を御所の周りに集めたという政策で。
後陽成天皇の時代、豊臣秀吉の京都大改造がひと段落下慶長5年こと1600年に、今の位置へ常施無畏寺は遷されています。御所を穢れから守ってほしいという意味合いもあるのでしょう、元禄7年こと西暦1694年、東山天皇により今の護浄院という名を賜りました。
天明の大火により一時は焼失するのですが、幕末にありました蛤御門の変では御所の反対側であり長州藩邸からも距離がありましたことで焼失を免れ、そして明治維新とともに大きな役割を担います、その背景は紛れもない、皇室による寺院であったことがおおきい。
廃仏毀釈、おそらく近現代史における最大規模の文化破壊であったと考えるのですが、東京遷都とともに御所にありました貴族邸宅は悉く取り払われます、その際に貴族邸宅にありました持仏像などを引き受けたのがここ護浄院であったのですね。何か運命的とおもう。
常施無畏寺ではなく護浄院、廃仏毀釈の時代にあってもここは寺院ですが寺ではないのですよ、ご本尊も荒神さまです、という部分が、廃仏毀釈は新政府への巨大な忖度の暴走によるもの、あまり仏教に関心ない方にはこの説明で納得するところがあったのでしょうか。
三宝荒神というご本尊は、もともと仏僧を穢れから守る、そして転じて伽藍も守ることとなり、その先に穢れを祓う連想からかまどの神様となったのですが、原点回帰で持仏像を守ることになったという、実に堂宇が開かれてのち1100年というときを経て原点回帰です。
京都にはこういう不思議な歴史の話が多い、仏教とかお釈迦様の、説話的なといいますかひとの信仰心上によっては恩着せがましさという話題もありますが、それよりも偶然と縁というものが重なった事柄も多いのですが、そうした話のほうが実に人間的に見えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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