■来年の話をすれば鬼が
来年の話をすれば鬼が笑うといいますが実際目の前にいた鬼が笑わなかったので来年の話題を。
光る君へ、来年2024年の大河ドラマが楽しみです、平安時代中期を舞台として後に世界最古の女性文学と呼ばれることとなります源氏物語、その著者である紫式部の生涯を描くという。主役は紫式部、そしてその紫式部が生まれたのが、このあたりだという。
紫式部の出生地がいまの廬山寺だというのは、昭和中期の研究で判明した、意外と新しい研究の成果だというのですが、こうしたことで源氏の庭が造営されることとなります、ただ、ここは何度も焼けた場所ですので、当時の遺構というものはまったく残っていない。
與願金剛院としての時代が長かったという廬山寺ですが、このお寺ではるかのちの時代に覚瑜という方が法然に帰依しまして天台宗寺院から一部を浄土宗寺院とします。これは寛元3年こと西暦1245年の話でして、このお寺を廬山寺と号するようになりました。
明導照源、転機となりましたのは応安元年こと1368年、つまり南北朝時代ですね、二山住持兼務が続くようになりましたので、一つの寺院にする、それは浄土宗ではなく天台宗寺院として統合することとなりましたが、名前を一部残しまして折衷案的な山号とした。
廬山天台講寺、という名前がその時の山号なのですが、天台宗と密教と律宗に浄土宗を学ぶ四宗兼学道場として成立しています。ただ、この時も場所は船岡山の南麓、いまでは住宅地と明治以降に造営された織田信長をまつる建勲神社となっていますが、このあたりに。
紫式部、さてここからは遺構がありませんので文学作品とともに浪漫を感じてもらうほかないのですが、紫式部日記の著者でもある。これは藤原道長に請われて宮中に上りまして当時の様子などを記録したものです。当時の日記というものは個人の記録ではありません。
藤原道長に請われて、というところが重要なのですが当時の日記は一族や後世のために記録分を残す、いわば議事録のような意味合いを有していました。もっとも紫式部の実父は藤原為時、藤原北家良門流の出自ですので藤原道長とは親戚関係にはあるのですが。
越前守、藤原為時はのちに任じられています。ただ、これは歴史的な各省はないものの今昔物語に、藤原為時が淡路守に任ぜられたことを知りました藤原道長、それより大きな国司にあたる越前守とするよう尽力したといい、紫式部との縁と関係があるのかもしれない。
国司はその任地により収入が大きく左右されるといい、今では福井よりも淡路のほうは、ここが淡路かニースじゃないか、というほどの観光地なのですが、当時は逆であり越前は農業開発に成功し、また環日本海貿易の要港も押さえた、実入りのいい地域だったのです。
廬山寺は、こうした紫式部との縁ある立地なのですが、今残るのは昭和時代に設置された歌碑がある程度、追儺式鬼法楽のほうが注目度が高いというところなのです、ただ、来年の大河ドラマ光る君へが始まりましたならば、にぎやかになるのでしょうか静かなままか。
めぐりあひて見しや-それともわかぬ間に-雲がくれにし-夜半の月影、歌碑にはこう記されています。なお、御所のすぐ隣にあって紫式部はいい場所に住んでいた、とおもわれるかもしれませんが、当時御所は今の二条城の北のほうにありましたのは留意しておきたい。
洛陽三十三所観音霊場第32番、豊臣秀吉の京都大改造とともに大きくなった寺院ではないか、こう思われるかもしれませんが、しかし滔々と流れる歴史にあってはここには紫式部が生まれた場所なのだ、と付け加えますと、なにかこう、浪漫を感じてしまいますよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
来年の話をすれば鬼が笑うといいますが実際目の前にいた鬼が笑わなかったので来年の話題を。
光る君へ、来年2024年の大河ドラマが楽しみです、平安時代中期を舞台として後に世界最古の女性文学と呼ばれることとなります源氏物語、その著者である紫式部の生涯を描くという。主役は紫式部、そしてその紫式部が生まれたのが、このあたりだという。
紫式部の出生地がいまの廬山寺だというのは、昭和中期の研究で判明した、意外と新しい研究の成果だというのですが、こうしたことで源氏の庭が造営されることとなります、ただ、ここは何度も焼けた場所ですので、当時の遺構というものはまったく残っていない。
與願金剛院としての時代が長かったという廬山寺ですが、このお寺ではるかのちの時代に覚瑜という方が法然に帰依しまして天台宗寺院から一部を浄土宗寺院とします。これは寛元3年こと西暦1245年の話でして、このお寺を廬山寺と号するようになりました。
明導照源、転機となりましたのは応安元年こと1368年、つまり南北朝時代ですね、二山住持兼務が続くようになりましたので、一つの寺院にする、それは浄土宗ではなく天台宗寺院として統合することとなりましたが、名前を一部残しまして折衷案的な山号とした。
廬山天台講寺、という名前がその時の山号なのですが、天台宗と密教と律宗に浄土宗を学ぶ四宗兼学道場として成立しています。ただ、この時も場所は船岡山の南麓、いまでは住宅地と明治以降に造営された織田信長をまつる建勲神社となっていますが、このあたりに。
紫式部、さてここからは遺構がありませんので文学作品とともに浪漫を感じてもらうほかないのですが、紫式部日記の著者でもある。これは藤原道長に請われて宮中に上りまして当時の様子などを記録したものです。当時の日記というものは個人の記録ではありません。
藤原道長に請われて、というところが重要なのですが当時の日記は一族や後世のために記録分を残す、いわば議事録のような意味合いを有していました。もっとも紫式部の実父は藤原為時、藤原北家良門流の出自ですので藤原道長とは親戚関係にはあるのですが。
越前守、藤原為時はのちに任じられています。ただ、これは歴史的な各省はないものの今昔物語に、藤原為時が淡路守に任ぜられたことを知りました藤原道長、それより大きな国司にあたる越前守とするよう尽力したといい、紫式部との縁と関係があるのかもしれない。
国司はその任地により収入が大きく左右されるといい、今では福井よりも淡路のほうは、ここが淡路かニースじゃないか、というほどの観光地なのですが、当時は逆であり越前は農業開発に成功し、また環日本海貿易の要港も押さえた、実入りのいい地域だったのです。
廬山寺は、こうした紫式部との縁ある立地なのですが、今残るのは昭和時代に設置された歌碑がある程度、追儺式鬼法楽のほうが注目度が高いというところなのです、ただ、来年の大河ドラマ光る君へが始まりましたならば、にぎやかになるのでしょうか静かなままか。
めぐりあひて見しや-それともわかぬ間に-雲がくれにし-夜半の月影、歌碑にはこう記されています。なお、御所のすぐ隣にあって紫式部はいい場所に住んでいた、とおもわれるかもしれませんが、当時御所は今の二条城の北のほうにありましたのは留意しておきたい。
洛陽三十三所観音霊場第32番、豊臣秀吉の京都大改造とともに大きくなった寺院ではないか、こう思われるかもしれませんが、しかし滔々と流れる歴史にあってはここには紫式部が生まれた場所なのだ、と付け加えますと、なにかこう、浪漫を感じてしまいますよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)