恥辱感について想いを巡らしていたが、ふと源氏物語の浮舟のことを思い出した。
源氏物語で、唯一の自殺未遂者である浮舟が、死を選ぼうとした時に、次の記述があった。
「これ以上生き永らえたところで、身を持ち崩し、人の笑い物になって落ちぶれさすらうなら、死ぬよりもっと情けない嘆きをみることだろう」(源氏物語 講談社 瀬戸内寂聴訳)
罪の意識で死を選ぶのではなく、恥の意識なのだ。日本文化について欧米人によって初めて書かれたとされる名著「菊と刀」を学生時代に読んだが、確か日本文化が恥の文化、欧米の文化が罪の文化としていた。
恥辱感というのは、考えてみると、自分しか知らない弱みを、外部に晒すということで起こる、ひとつの自我意識の原初的な感情のように思う。
エリクソンの8つの人格形成論からすると、恥辱感は罪悪感の前の2-4歳ころに発達するものとあり、次の罪悪感の前に位置づけられる。自分の経験からしても、恥辱感は罪悪感に先んじて生まれたように思う。
恥辱感は自分にとってどういう意味を持っているのだろうか。自律を促す感情だと思うが、大きいことでは自分の生き甲斐を再考するきっかけにもなる感情だと思う。ポジティブに考えたいものである。
内面と外面を分け、自分が成長した証しでもある恥辱感の存在。気持のよい感情ではないが、大切にして思索したいものだ。
<疑惑・恥辱4/4>
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