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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

なにげない都会の風景・ふるさとに眠るもの!(地図と年表 8/10)

2014-07-04 | 第五章「和解と平和」

 

 写真は、明日の勉強会会場の新宿歴史博物館なのだが、普通は、道路があり博物館があるのかなと気付いたり、注意深い人は、後方にある鉄塔が市ヶ谷の防衛庁のものだと気付くかもしれない。

 ところが私は、この博物館の近くに(左側の道がこの先急な坂で下っている先)幼いころから住みなれた家があったので、50-60年くらいの様々な記憶とダブル。この博物館ができるまでは、新宿区立高等商工学校があり、夜学中心だったためか不思議な学校というイメージがあった。それが、知人がここで学ぶようになり、中には入ったことがなかったものの、ある種の感慨があったものだ。

 ここまでは、せいぜい一年前の私の感想だったと思うが、この一年の「生き甲斐の心理学」の学びと実地見学等の中で、この地に縄文土器が出てきたり、私の住んでいたあたりは、当時はフィヨルドの海面下だったかもしれないことを確信した。時代が下がると、室町幕府の時代には太田道灌が、このあたりを狩りで通りがかったかもしれない(雪印乳業にあった大木が目印だった)。

 そして、江戸時代は外堀のこの地には、足軽長屋があったり、坂下あたりにはお寺があったりする。この地区は北伊賀町という名前だったので、ひょっとしたら服部半蔵と繋がる江戸版隠密の地だったかもしれない。

 明治になり、私の祖父が少年だったころは、縄文時代のフィヨルドはさすがに消えているが、名残の小川はまだ低地に流れていて、祖父は野生の野葡萄を時々摘んでは食べていた。明治以降になると、下級武士たちはどこかに去り、関東大震災や東京大空襲で灰燼に帰したりするものの、立ち直り今に至る。

 一つの地点が、時間軸の中でいろいろ意味を持ち変わっていく。その中で私の祖先たちも、いろいろな関わりをもちつつ、遊んだり結婚したりして生活してきた。そして、今は、私の育った家は他人のものとなってしまったが、このあたりは私のふるさとなのだろう。

 

 さて、ふるさとについてだが、私は石川啄木の二つの歌が好きだ。

 

 ふるさとの山に向かひて

 言ふことなし 

 ふるさとの山はありがたきかな

 

  今年は、盛岡周辺に行くことができて、岩手山を眼に焼き付けてきた。富士山とは違う意味で存在感があり気高い山だった。啄木の感動が胸にしみわたる。もうひとつは、

  

 ふるさとの訛りなつかし

 停車場の人ごみの中に

 そを聴きに行く

 

 この歌でちょっと質問だが、この停車場は何処なのか?盛岡か静岡か函館か・・・実は定説では東京の上野駅だそうだ。そして上野駅構内に歌碑まである。

 脱線したが、私は石川啄木のふるさとの歌が好きである。変に感傷的であったりする歌でもなく、ふるさとの本質を見抜き大切にしているように感じるのだ。「生き甲斐の心理学」では自己実現の領域のなかの問題として、自分の生育史を大切にすることの重要さを述べている。

 私もそうだが、今までの過去を振り返ると、いろいろ思いだし暗い感情が湧きたつものだ。しかし、嫌な出来事でも良く考えてみれば、どこかで自分の糧となっているようなのだ。例えば嫌な出来事と思っていても、それは当時の狭い世界の解釈で、大人の眼で今みると大切な瞬間と感じ感謝してしまったり。自分の生育史を無理のない範囲で、思い出し楽しんでいくことで、それを浄化できるようでもある(生き甲斐の心理学の理論は、とても大事)。

 自分の生育史を浄化していくと、変な猜疑心、変な罪悪感、変な劣等感から解放される。

 啄木は上野駅に訛りを聴きにいったり、岩手山で何か神聖ともいえる気持ちになったりした。比較するのもおこがましいが、私も、ふるさとに行ったり、昔を知っている仲間や家族との語らいの中で、さまざまな気づきを得た。

地図と年表 8/10

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