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1590年の日本のトップ・ニュース!(ストレス曲線をバネに② 10/10)

2014-07-27 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日は、高温注意報の中、近辺のNo.107遺跡周辺を散策した。写真は大石信濃守屋敷跡と言われる松木台とされていた台地東端から大栗川方面を眺めた写真である。今はここから南東方向で大栗川が二又に別れるが、16世紀は、このあたりで太田川と大栗川に別れる川に守られた要害の地であったようだ。昨日お話した通り、ここは縄文時代からの複合遺跡で何度も遺跡調査が行われたとのこと。すでに、民家が立ち畑になっていたが、北端に大石信濃守墓があるという(今回も確認できなかったが)。

    

 さて、1590年。この年は豊臣秀吉が北条氏(鎌倉時代の北条氏とは異なり後北条と言われることも多い)を滅ぼしたのがトップニュースだ。これにより豊臣秀吉は日本を統一したといってもよいのだろう。黒田官兵衛の直談判で小田原城無血開城となり、北条氏照等は切腹するが、その前の八王子城(北条氏照城主)の決戦が事実上の勝敗を決定したようだ。

 北条氏は由木の大石氏と実に深い関係があり、北条氏照は一時大石家の養子になった時期もあった。そして、1590年のちょうど今頃の7月に、八王子城は落城するが、その時を同じくして、この大石信濃守も討死し、その後はこの館や大石氏や北条氏に縁の深かった永林寺のある殿ヶ谷戸(現在は由木中央小学校のそ)も没落したようだ。

 因みに、永林寺は先日訪れたが、実に立派な七伽藍の曹洞宗の名刹だった。大石定久のお墓や銅像も必見である。

 

    

 永林寺といい、大石信濃守館跡といい、恐らく何百回も近くを通っているにもかかわらず、図書館でたまたま手にした本に出会わなければ、八王子城の悲劇とも結びつかず何も変わらず暮らしていただろう。本を読み、思考が変わり意識が変わると知覚が変わる。

 勿論、準備をして出かけたが、この私の真夏の行動はなんだったのだろう。こうした、私の好奇心もさるものながら(大したことないね)?北条氏や大石氏の1590年の各面々の心中は如何にと思う。切っても切れない身内や一族郎党への愛。そんな中で悩み行動していく彼らの軌跡は、きっと今でも知恵を授けてくれるだろう。

ストレス曲線をバネに② 10/10

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