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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

私の中の縄文時代!(ストレス曲線をバネに② 9/10)

2014-07-26 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 写真の花は大賀ハス。2000年前の縄文時代の花の種から育ったそうだ。毎年府中や町田の薬師池公園で楽しむが今年はまだ行っていない。今日にでも時間があれば・・・

 さて、昨日は堀之内周辺で縄文時代を堪能した。と言っても実際に遺跡を観たわけではない。大きな建物を建設する過程で発見され調査され埋め戻されたり、建造物が立ってしまった元遺跡だ。もう、何百回も通り過ぎたことのある、京王堀之内駅の南、大栗川を渡り、平山方面に向かう南北に走る公道と野猿街道の交差点を渡ってすぐ右のあたりだ。近くに芝原公園や北八幡神社、フードワンがある地域。ここは有名なNo.72遺跡があったところで、竪穴が340軒、土器片石器類が100万点を越える大遺跡だった。そして、4000年~5000年前の縄文中期がピーク。縄文時代には、弥生時代以降と違い、集落の中央部に土壙(お墓)をもつことが多かったそうだが、この遺跡も中央部の広場に土壙があった。

 当時の宗教や文化はいろいろ専門の論文があるが、特徴的なのは、集落の中央にお墓があるという新石器型の文化である。死者と生者が分離せず何か渾然一体となる文化。ほんわかとした文化かなと思う。

 ふと、我が家にも仏壇があることを想った。これは亡き父が祖母が亡くなってから使っていた小型の仏壇で、父が他界したので、我が家が引き継いだ。私は母がカトリックだったこともありカトリックなのだが、仏壇は大事にしている。しかし、調べてみると仏壇は不思議な風習である。天武天皇の時から歴史的には仏壇・神棚が国の認めるところとなったようだが、起源がはっきりしない。仏壇をWikipedia。同じ仏教国であるタイでもないようだし、宗教は違ってるかもしれないがキリスト教国でも、祖先の位牌?を身近に置くような文化はないようだ。

 私は、妄想するのだが、これは縄文時代・新石器時代のなごりではないかと。死者と一緒に生きるという感覚は日本人の中に生き続けた。

 遺跡No.72の跡地?は住宅地になっていたが、そこは美しい花が咲き、子供らの楽しい声が響いていた。真夏の酷暑であったが、風が気持ちよく、縄文時代でも住環境が良かったことは想像できる。近くの北八幡神社にもよった。ここにもかなり破壊された石仏があり、明治の廃仏毀釈を思い出したりした。

   

 さらに、近くの大栗川沿いの大石信濃守屋敷跡、No.107遺跡周辺も行ってみた。ここは縄文時代以降の様々な複合遺跡だそうだ。ただ、今は大石やかた公園があったものの、大石信濃守の墓も見つけられず、一人ふらふら探していたら、次の看板。怪しまれてはと思いつつ出直すことに。昔は縄文土器片などいくらでも拾えたそうなので、また行ってみたい。

 

 今日は、「花子とアン」は甲府の実家での波乱万丈。白蓮さんとお腹の赤ちゃんが心配だが、おじいさんの位牌のはいっているはずの仏壇はどうなっていたのだろう。おじいさんの魂は結婚式の時に大活躍したが、今度はどうなのだろうか・・・

 今回のブログを書くに当たり、東京都埋蔵文化センターのパンフレット「多摩のむかしを訪ねて」。および、「武蔵国多摩郡と由木の里の昔語り」(石井義長著 揺籃社)を参考にさせていただきました。先人の知恵に感謝です。

 もう一つ、若いころ一緒に仕事をしたNさんが最近亡くなったとの訃報に接し、次のことを思い出しました。彼から聴いた話ですが、仕事でストレスを感じたときに、彼は古代からの年表をよくみるとのことでした。そして、このストレスも長い時間の中では大したことがないと思いなおすそうです。確かに縄文時代のアースフィーリングに触れると、何か違って見えてくる。

ストレス曲線をバネに② 9/10

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