イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

自分の中の古代、欅(けやき)並木で想う!

2008-03-06 | 第三章「無意識の世界」

 昨晩は、府中の大国魂神社の前の天然記念物である欅並木を通りがかった。

 900年以上の歴史を誇る天然記念物であり、さらに大国魂神社は1900年近い歴史がある。

 場所は府中の駅前であり、様々な建物も一緒に立ち並んでいる。長い歴史を抱いた街である。

 府中の風景もそうだが、私のこころの世界も同じように、様々な古(いにしえ)の影響が満ち満ちている。

 私の父方の亡くなった祖母は、明治生まれで一生を農家で過ごした。彼女は、何かあると近くのお不動さんにお参りにいった。

 お不動さん信仰の由来を調べてみるとこれは結構古く、仏教の到来以前のプリミティブな宗教と繋がっているという説もある。

 母方の祖父は、お盆の時にいつも送り火していた。来年は、この煙に乗ってくるかなあ、と言って家族を驚かして楽しんでいた。お盆・・・この歴史も仏教以前である。

 そんな長い宗教・こころの歴史の中で、最近のグローバリゼーションは何であろうか?幼かったころから今に至るまでを振り返ると、その影響力、スピードは筆舌に尽くしがたい。

 ただ、欅並木が現代の中で、きちっと存在感を出しているのを見ると励まされる。こころの中の古層も、暖かく見つめることも大切なのだろう。

<日本に生まれて2/4>

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手動式エレベータに乗って!

2008-03-05 | 第三章「無意識の世界」

 先日、昭和7年に建てられたという建物に行き、レトロな手動式エレベータに乗った。ドアを手で自分で開け、目指す階のボタンを押し昇る。そして到着してから、二重の扉をきちっと閉める。

 ガラス越しに中のエレベータ本体が見え、手動で運転する。昔両親に連れられて三越デパートに行った時のことを思い出す。今では、このようなエレベータは一般的ではないが、当時はわくわくしてエレベータに乗り、エレベータガールを尊敬のまなざしで見たものだ。

 デパートというのは、子供にとって不思議な空間であった。おもちゃ売場が最大の関心であったが、いろいろな世界に連れてってくれるエレベータは魅力的だった。

 そして、エレベータは独特の加速感や振動で、ちょっとした不安感を産む。スリルも楽しめる。

 何人かでエレベータに乗るときは別にして、一人でエレベータに乗ると、結構不安を感じる。高層ビルの高速エレベータも緊張する。

 いつのまにか3月になってしまった。来月は4月新学期等、すべてが新しくなるように感じる。そして今は、エレベータに乗って、地下深く、自分のこころの地階を覗く時なのかもしれない。

<日本に生まれて1/4>

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光と影!

2008-03-04 | 第三章「無意識の世界」

 サラリーマン時代に、業界雑誌や新聞によく、光と影という表現を見た記憶がある。複眼的な見方で、深い洞察力を暗示しているようで、思わずその記事を読んだりした。

 影が深いほど、光の有難さに結びつく。

 罪悪感、罪責感といえば、ゴヤが描いた「わが子を食らうサトゥルヌス」を思い出す。大学生の時に見たゴヤ展の印象は強烈であった。サトゥルヌス(クロノス)の表情は罪悪感に満ちていた。

 罪悪感は何であろうか、反動形成や合理化といった心の防衛機制を張り巡らせる最たるものなのだろう。そんな暗い時でもリラックスしていると無意識の世界からであろうか、ふっと薄っぺらい自尊心に気づかせてくれたりするメッセージが訪れることがある。不思議な時である。

 ゼウスによって、サトゥルヌスは最後には食らったわが子を吐き出すことになるが、何か希望を感じさせてくれる。

 どうしようもない罪悪感に苛まれても、解釈次第で愛とゆるしの世界に繋がるように思える。

<罪の問題4/4>

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春がやってくる!

2008-03-03 | 第三章「無意識の世界」

 ベランダの水仙が咲きはじめ、いよいよ本格的な春が近づいてきている。

 花見の計画も楽しく始まっている。ただ、この季節はキリスト教では四旬節といって、復活祭(今年は3月23日)の前の準備の期間である。質素に、祈りの時を過ごす。

 宗教は、季節を通して密接に私たちの生活で深められていくように想う。日本の伝統的な正月やお盆は最たるものではないだろうか。最近、正月やお盆が日本でも世俗化の影響か、特別な行事の時期という感じがしなくなってきているのも、何処かさびしい。

 罪という問題を考える時、特に生育史を考えるとき、どうしても日本の文化、思想・哲学を考えざるを得なくなる。

 特に、私はカトリックの幼児洗礼を受け、中学校ぐらいまでは、教会に毎週行ったりした。ただ、周りを見渡せば、母以外の父も祖父母もカトリックではなく、家でも学校(公立だった)でもマイノリティであった。

 罪とは何だろう。私の心に沁み込んでいる罪。そして、キリスト教の影響なのか、日本の文化の影響なのか・・・何となく余計なことを考えてしまう。ただ、自分のこころのことを考え深めていくと、深層に流れる日本の文化・思想史の影響が大きいことに気づく。

 今、湯浅泰雄氏の「日本人の宗教意識」(講談社学術文庫)を読んでいる。興味深く読んでいるが、歴史の教科書でならったことと思想史の世界はどうも随分違うようである。特に中世の仏教の大衆に受けられるプロセスは興味深かい。

 復活祭までの期間、静に考え続けていきたい。

<罪の問題3/4>

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大きな影法師・・・罪悪感の原型!

2008-03-02 | 第三章「無意識の世界」

 夕方、多摩川の河川敷で自分の影法師を撮った写真です。

 影というのは不思議で、自分のものでないようで、自分の一部でもある不思議な存在です。そして、自分のあまり触れたくない、罪悪感に関することを連想してしまいます。

 罪を意識したのは何時のことでしょうか?どうやら、6-7歳のころのようです。心理学者で発達心理学の分野で有名なエリクソンによると、このころ目的志向性が芽生える時期で、自発性とともに、罪悪感も発達してくるようです。

 今でも記憶にあるのは、アラスカのシトカに両親と住むようにしばらくして、急に心臓が痛み慌てたことです。父も仕事場から急いで帰ってくるなど、両親も驚いたようでした。

 運が良かったことに、これは身体の問題ではなく、医者から大丈夫と言われました。

 どのような原因だったか今でもはっきり判りませんが、母の話などを総合して考えると、どうも罪悪感を感じていたことは確かだったようです。「悪いことをしたから罰があたった」といった内容を母に言っていたそうです。

 恐らく、幼い頃の勘違いや前年の幼友達の交通事故での死、外国に行って環境が変わるなど、いくつかの要因が重なり、ストレスが溜まっていたのでしょう。

 運が良いことに、両親の愛や暖かいアラスカの方々に助けられて、その後は健康に暮らせたことを感謝しています。

 そのころに感じだした罪悪感は、明確な罪の自覚を伴っていたかは不確かです。罪自体がはっきり実感できない漠とした不安だったようです。明確な罪の自覚と罪悪感を感じたときは、その後の8歳の時の小学校での出来事でした。

 当時は深刻でしたけど、今から考えると自分ながらかわいいと思う罪でした。ただ、その時の罪悪感の原型は、今でも罪悪感を感じる時の土台になっているようです。

 倫理道徳を離れて、自分の罪悪感の原型をのんびり、暖かく思い出すと、はっと自分の真実を発見することがあるようです。当時の体験の再解釈をすることで、自分が楽になれることがあるようです。

 過ぎ去った過去の事実は変えることができませんが、解釈は変えることができます。また、今ここでという、何かを変えていく現場が生きている限りあります。

 罪悪感は、長い目でみると、悔いのない人生を生きるための羅針盤のようです。

<罪の問題2/4>

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